古文書を読み解き、美しい歴史の本にしました

 

 徳川家康が全国制覇を成し遂げ、慶長8(1603)年に江戸幕府を開きました。戦争に明け暮れた武士たちの生活は一変し、全国を統治する行政官として働けるよう、家康は戦国武士に文武両道を奨励しました。これに伴って、武士の生活には文字を読み書きする能力が求められ、主君と臣下の間や武士と武士の間さらには領民との間で交わされる文書が爆発的に増加しました。読み書きと文書交換の習慣は制度として百姓・町人にも広がり、これとともに、公家や武士のみならず江戸時代の日本人の識字能力は世界最高水準にあったと言われています。
 このようにして作成された文書は今に受け継がれ、歴史を伝えてくれます。古文書(こもんじょ)と呼ばれます。
 
 四街道(よつかいどう)市は、陸軍の砲兵学校などがあった軍隊の町すなわち“軍郷(ぐんごう)”であり、その後の開拓によって発展した町である、これが四街道市の大方の新住民の常識になっています。その象徴と言える史蹟が「ルボン山(るぼんやま)」です。明治5年4月に来日したフランス陸軍軍事顧問団の一員だったジョルジュ・ルボンが築いたものです。これをきっかけにして、四街道に総武線の停車場が開業し、陸軍砲兵射撃学校などの軍事施設を構えて、周辺に町場が形成され“軍郷”として繁栄しました。そして戦後は町場を中心に郊外都市として発展を遂げて今日に至ります。
  一方、四街道駅から少し離れると、そのような新しい町とは異なる風景が今も残っています。
 古道沿いには旧家の長屋門や土蔵が建ち並び、道端には道祖神や庚申塔などの石塔が、また鎮守の神社やお寺が、江戸時代の四街道の面影を残しています。これこそ、長い歴史を持つ四街道の姿であり、先祖代々四街道の歴史や文化が受け継がれています。その長い歴史を伝えるのが古文書です。
 江戸時代に四街道市域には16の村がありましたが、ルボンが来日し、“軍郷四街道”となった地域は、16の村から見れば、鹿や猪や狐狸が棲む全くの“村はずれ”の原野だったのです。
 その意味から、四街道という町は大きく分けると、歴史と文化を受け継いだ16の村と、その村はずれに生まれた新しい町からなっています。そして、今では二つの地域が混然一体としてこの町は成り立っています。
 
 さて、私の終(つい)の棲家となったこの町にも多くの古文書が残されています。これを読み解くことで、“軍郷四街道”が誕生する以前の江戸時代の四街道やその後の歴史を知ることができます。一体どのような歴史が繰り広げられたのか、これまで、このようなこの町の歴史を伝える資料は全くと言ってよいほどありませんでした。ここで紹介させていただくのは、そのような埋もれた歴史を伝え残そうとして出版した書籍です。そして、それらの書籍は、必ずしもこの町の歴史のみを伝えるものではなく、周辺地域や我が国の江戸時代や明治時代の歴史の背景を伝えるものでもあります。
 ルボン山の頂上で私は予てからさまざまに空想し、思いをはせてきました。何故、フランス人がこのような僻地にやってくることになったのだろうか、何故、アメリカ人やイギリス人ではなく、フランス人だったのか、と。すると、江戸幕府の開国の志士たちが、攘夷の旋風に惑わされつつも、ナポレオン政府に助けられて、西洋の事情を見聞きし、開国に向けて活躍する姿が見えてきました。

 ここに紹介させていただきます拙著4作品(5冊)は、江戸時代や明治時代の郷土の歴史だけではなく、16か村の領主であった佐倉藩の幕末・維新にも焦点を当てており、この町にゆかりのあるフランスをはじめとする幕末・維新の「開国」外交についても詳細に解説しています。
 
                              令和7(2025)年12月
 著者 大矢敏夫 拝
 
※「千葉日報」に掲載していただきました(切り抜き)(ここを左クリックすると該当ページに移動します
※「千葉日報オンライン」退職後から古文書の道に 地域史紹介する5冊出版 四街道の大矢さん」(ここを左クリックすると千葉日報オンラインの記事に移動します
 
 
 

出版情報

 
私がこれまで出版してまいり案した著書は以下のとおりの4作品(5冊)です。
2025年9月29日 「古文書が伝える江戸時代の四街道」出版
2024年7月 1日 「ルボン山と町打場の物語 佐倉藩の幕末・維新と″軍郷四街道”」出版
2023年3月 6日 「西洋との遭遇 幕末・維新アナザーヒストリー 下巻」出版
2023年2月27日 「西洋との遭遇 幕末・維新アナザーヒストリー 上巻」出版
2020年4月 7日 「徳川将軍の小金原御鹿狩」出版
 著書の出版に当たって、私が最も重視したのは、多数の一次資料によって「歴史の事実」を詳しく解説し、また著名な研究者による信頼度の高い知見に裏付けられたものにすることでした。拙著では該当箇所には必ず引用資料を明記しており、拙著の末尾には引用資料を列記しています。そのため、拙著は専門書のような堅苦しいイメージを持たれる方もいらっしゃるかもしれません。
 もうひとつのこだわりがあります。拙著では歴史の事実を具体的にイメージできるように、貴重な絵図や写真、とくにカラーの絵図を多数掲載するようにしています。これには、図録のような「美しい本」にする狙いも含んでいます。また、分析した結果を詳細に解説するために、自ら作成した図や表を多く挿入しています。
 そのようなわけで、拙著は一般的な(写真や絵図の無い、少ない)書籍と比べれば、少し高価なものとなりますが、手にすると美しく、ずっしりと充実した内容のものにしています、必ずご満足いただけると思います。歴史を学びたい方、江戸時代や明治時代に興味のある方、とりわけ四街道市周辺の皆様にとっては、いずれも「必読の書」です。
 是非ともご購読賜わりますよう、よろしくお願い申し上げます。
 なお、いずれの著書についても、初版以後に誤字・脱字などが見つかった段階で、随時訂正し、改版しておりますので、悪しからずご了承賜わりますよう、よろしくお願い申し上げます。また、「徳川将軍の小金原御鹿狩」第3版については、その後に出版致しました他の著書と同じページ設定に統一したため、ページ数が大幅に減少しておりますが、内容は初版・2版と変わりはありません。
 
発売:アマゾンおよび楽天ブックス
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西洋との遭遇 幕末・維新アナザーヒストリー 下巻Amazonで購入する楽天ブックスで購入する
ルボン山と町打場の物語 佐倉藩の幕末・維新と“軍郷四街道”Amazonで購入する楽天ブックスで購入する
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田植えが終わった小名木川両岸の稲田(大矢敏夫撮影)
 
 
 
 
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著書の紹介

 
裏表紙 
徳川将軍の小金原御鹿狩

【目次】
 序 章 十助の小金原御鹿狩(前編)
 第一章 小金原御鹿狩とは
 第二章 嘉永二年小金原御鹿狩の決定と準備
 第三章 嘉永二年小金原御鹿狩における勢子人足
 第四章 将軍と旗本たちの華麗な御鹿狩
 第五章 獲物の下賜と褒賞・扶持
 第六章 小金原御鹿狩あれこれ
 第七章 嘉永二年小金原御鹿狩を振り返る
 終 章 十助の小金原御鹿狩(後編)

 小金原(現在の松戸市小金原)における徳川将軍の御鹿狩を伝える資料は多数ありますが、そのほとんどは、江戸時代から保存されていた古文書や絵図であります。それらをもとに調査研究された専門家による論文や、自治体で編さんされた地域の資料集などもありますが、御鹿狩の全貌を伝える文献や書籍は見当たりません。とくに房総の人々を総出にして行われた歴史でありながら、ほとんどの千葉県民はその事実をご存じないようです。
 私は四街道市長岡の井岡家に残る嘉永2年の小金原御鹿狩文書の整理・調査をきっかけにして、小金原御鹿狩に関する千葉県内はもちろんのこと、埼玉県・茨城県・東京都の、主として勢子人足側の資料を調査・分析して、約5万人の勢子人足の猪鹿の追い立ての実態を浮き彫りにしました。
 そして、小金原の御狩場において徳川将軍が行った御鹿狩について、国立公文書館の「大狩盛典」その他幕府や旗本が残した資料を調査・分析し、御鹿狩がどのように準備され、実施されたのかを明らかにしました。
 その意味で本書は、徳川将軍の小金原における御鹿狩の全貌をまとめた一書で、内憂外患の徳川幕府が見せた一瞬の輝きを伝えるものであります。

   出版社:デザインエッグ株式会社
   出版年:2020年4月初版発行(現在3版発売中)
   単行本:224ページ
   価 格:本体 2,780円+税
 

裏表紙 
 
裏表紙 
  西洋との遭遇 幕末維新アナザーヒストリー
     ~ルボン山から西洋が見えた

【上巻目次】
 序 章 「ルボン山」から西洋が見えた
 第1章 ペリー来航の衝撃
 第2章 開国と攘夷
 第3章 海軍と軍艦とオランダ留学生
 第4章 万延一年遣米使節
 第5章 開市開港延期と遣欧使節
 第6章 横浜鎖港と使節再派遣
 第7章 新たな外交~英仏の思惑
 第8章 幕末に開花した日仏関係
 第9章 最後の将軍慶喜の外交
 
【下巻目次】
 第10章 幕府崩壊と天皇の政府の始まり
 第11章 徳川昭武の欧州派遣(その一) パリ万国博覧会使節として
 第12章 徳川昭武の欧州派遣(その二) 各国歴訪とパリ留学
 第13章 フランス陸軍軍事顧問団
 第14章 陸軍の兵式をフランス式とする
 第15章 岩倉使節団の米欧派遣
 第16章 第二次フランス陸軍軍事顧問団
 第17章 フランス人教師による野営演習
 終  章 その後の「ルボン山」

 幕末・維新の時代をどのように見るか、歴史の見方はさまざまです。黒船来航で慌てふためく徳川幕府、安政の大獄や攘夷、西郷隆盛や坂本龍馬が活躍する幕府と薩長の戦い、などなど、物語は山ほどあります。
 しかし私は、幕末・維新について少し別の視点からこの時代を見てみたいと思いました。安政5(1858)年6月に徳川幕府は日米修好通商条約に調印し、西洋の資本主義による近代的な産業によって日本の発展を目指しました。ところが、一方では鎖国を祖法と主張し、これを固持して尊王攘夷を唱える人々がいました。彼らと戦いながら、日本の開国と近代化を推し進め、さらに富国と強兵に必死に取り組んだ人々の視点から、私は幕末・維新を捉えました。

 たとえば、西洋諸国を訪ね歩いた遣米使節や遣欧使節は、日本人として身の危険を感じることなど全くなく、それどころか各地で大歓迎を受け、近代的な西洋の現状に目を開かれました。その感動を人々に伝えようと帰国すると、外国のことを語っただけで命を狙われ、海外に出かけたことすら口にできませんでした。
 本書は、そのような葛藤を乗り越えて、近代化による富国強兵と開国を目指した徳川幕府による列強諸国との外交関係に着目しました。そして、幕末・維新の西洋との遭遇の歴史を、これまであまり話題にされなかった視点からの「アナザーヒストリー」としてまとめたものです。
 歴史書は、ともすれば面白さを求めて史実でもないフィクションを交えて語られるものも多く見られるなか、私は徹底してフィクションを避け、古文書・公文書・書籍その他の歴史資料を活用して史実をしっかり調査し、関連資料を検証したつもりです。
  幕末・維新の歴史を伝える書籍は多くありますが、幕末・維新は開国に向けた外交関係に触れずに語ることはできません。そこに焦点を当てたのが本書です。

 本書執筆のきっかけは、終の棲家となった現在の四街道市のこの地にやって来たフランス陸軍教師のジョルジュ・ルボンでした。彼は明治初期にこの原野をフランス式の大砲演習場を築造し、後に「ルボン山」と呼ばれる貴重な史跡を残しました。彼が一体どうして下総の辺境の地を訪れることになったのか、何故アメリカ人やイギリス人ではなくフランス人だったのか、一体、幕府とフランスはどのような関係を築いたのか、どのような歴史の流れの中で、日本とフランスの交流が始まったのか、などなど、素朴な疑問が浮かび上がりました。私はしばしば「ルボン山」の頂上から360度の眺めを楽しみますが、このような思いもあって、史実を調べるうちに、ついに「ルボン山」から当時の西洋が見えてきたのでした。
 本書は当初の目論見を超えて、上下巻合わせて840頁という長大なものになってしまいましたが、写真や絵図を掲載して当時のイメージを浮き彫りにしました。

  出版社:デザインエッグ株式会社
  出版年:上巻2023年2月初版発行(現在6版発売中)
      下巻2023年3月初版発行(現在8版発売中)
  単行本:上巻422ページ、下巻420ページ
  価 格:上巻本体 4,290円+税、下巻本体 4,270円+税
 
 
裏表紙 
  ルボン山と町打場の物語
                     ~佐倉藩の幕末・維新と“軍郷四街道”

【目次】
 序章  史蹟「ルボン山」と下志津原
 第1章 異国船対策から開国へ
 第2章 開国から幕府崩壊へ
 第3章 佐倉藩の幕末・維新
 第4章 徳川幕府と佐倉藩の軍制改革
 第5章 幕末佐倉藩の海防と軍役
 第6章 佐倉藩の砲術と町打場
 第7章 陸軍創設とフランス陸軍軍事顧問団
 第8章 陸軍下志津原大砲演習場の誕生
 第9章 〝軍郷四街道〟の誕生
 終章  下志津原とルボン山を偲ぶ

 徳川幕府は、異国船の頻繁な来航に備えて西洋式砲術の普及と、大名家や旗本家の殿さまと家臣という封建制度下において、それぞれの縦割り式の軍事組織を永年受け継いでいました。ところが、効率的な西洋式軍事組織を学ぶにつれて、これに変換させざるを得ませんでした。佐倉藩においても、いち早く西洋式砲術を取り入れ、西洋式軍事組織に変貌させました。
 その昔、四街道市北部に“下志津原”と呼ばれる原野が広がっていました。佐倉藩は天保11(1840)年2月に周辺村々を納得させて、下志津原に町打場(砲術稽古場)を完成しました。その後、幕末に至るまで、佐倉藩はこの地で砲術方の大砲演習を実施するとともに、高嶋流の砲術の試打、さらに新たに導入した西洋砲の試打などに使用しました。その変遷の過程で、佐倉藩の伝統的な砲術指南役斎藤弥一左衛門家が、高嶋流に移行し、やがて斎藤家に頼ることなく、藩としての軍事組織が形成されていきます。本書はその急激な変化の経緯に踏み込んで解説しています。また、佐倉藩は、武士だけではなく、近隣の百姓の中から農兵を募り、これを藩の軍事組織に組み込んでいくのですが、四街道市域の百姓もまたこれに応募し、兵役を勤めました。さらに、本書では佐倉藩が新政府軍に降伏しつつ、旧幕府軍と戦うという悲劇的な経過についても触れています。

 明治5(1872)年11月、陸軍大輔山縣有朋は「これに替る適地なし」として、旧佐倉藩の“町打場”を大砲演習場に決定し、フランス陸軍軍事顧問団のジョルジュ・ルボン砲兵大尉にその築造と諸施設の建設を委ねました。この時、演習場の南端の射垜(射的用の土手)を築き、その西端に「小山」を立ち上げました。その後、ルボンはしばしばこの地を訪れ、大砲演習を指揮しています。

  明治27(1894)年12月、総武鉄道が四街道停車場を開業し、野戦砲兵射撃学校が停車場近くに開校すると、帝都からのアプローチが容易になり、天皇や皇太子の行幸啓を仰ぎました。これにより、停車場周辺に町場が形成されて、“軍郷四街道”が誕生しました。
 明治45年9月、ルボンが明治天皇の大喪時にフランス国代表として来日し、その帰途、懐かしいこの地を再び訪れました。「小山」の頂上に陸軍野戦砲兵射撃学校の河北大佐が“ルボン山”と名付けて木標を建てると、感動したルボン将軍は大佐と固く握手を交わしました。「ルボン山」命名の瞬間でした。
 戦後、開拓団によって演習場地に農地が拓かれ、さらに団地が造成され、商業施設やマンションが建ち並び、今や原野の面影はありません。

 本書では、時々の地図を掲載して、周辺地域の変遷を解説しています。

  出版社:デザインエッグ株式会社
  出版年:2024年7月初版発行(現在4版発売中)
  単行本:384ページ
  価 格:本体 3,970円+税
 
 
裏表紙 
 
裏表紙の田植えの図はAI(コパイロット)が生成したものです。
         古文書が伝える江戸時代の四街道
 
【目次】
 序章  四街道の古文書
 第1章 江戸時代の四街道の村
 第2章 江戸時代は米遣い経済
 第3章 小川家文書が伝える江戸時代の四街道
 第4章 「御用日記帳」が伝える江戸時代の四街道
 第5章 井岡家文書が伝える江戸時代の四街道
 第6章 井岡家御鹿狩文書を読む
 第7章 六方野と下志津原と新しい村
 終章  明治を迎えた江戸時代の村

 私は10年にわたって四街道の旧家に残された1万7千点の古文書整理に携わってきました。本書は、それらの古文書が伝える江戸時代の郷土の歴史を後世に書き残しておきたいと考えて執筆したものです。

 江戸時代の郷土の人々は、領主との間で多くの文書を取り交わし、他の村との間で文書によって交流していました。古文書は郷土の歴史を生き生きと伝えています。四街道の江戸時代の歴史について書かれた書籍は少なく、その歴史はあまり知られていませんが、本書はその一助になるものと確信しています。
  市域に残された古文書には、幕府や佐倉藩の支配、村の取締体制、年貢や人馬の差出その他の課役、近隣村々とのネットワーク、村民の心のよりどころであった寺や神社の風習、庶民に許された神社仏閣への参詣旅行などなど、さまざまな当時の様子を記録されています。
  特筆すべきは、幕府や佐倉藩の御用が詳しく記録されている小川三郎右衛門家文書「御用日記帳」でしょう。また井岡敬則家の御鹿狩文書は四街道市の文化財に指定されている貴重な資料であります。そのほかにも数え上げればきりがありませんが、それらの古文書から四街道市域の村や百姓たちの生活ぶりがうかがえるのです。

 古文書と言えば、小難しい漢文調の候文に読む気をなくす方が多いと思いますが、私はそのような方にも本書を手にしていただけるよう心掛けて執筆したつもりです。とりわけ、書籍が文字だけにならないよう、図表によって解説し、写真や絵図などを多く掲載して図録のような美しい書籍にすることを目指してきました。また本書では、新技術のAIによる生成画像をイラストとして掲載して、雰囲気を和らげることができました。

 
  出版社:デザインエッグ株式会社
  出版年:2025年9月発行(現在2版発売中)
  単行本:298ページ
  価 格:本体 3,350円+税
 
 
 
 
 
小名木川両岸に稲が稔ります(大矢敏夫撮影)
 
休耕田では雉が奇声を発して、互いにテリトリ-を競っています(大矢敏夫撮影)
 
 
 
 
 
 
 

著書のハイライト&エピソード

 
 拙著4作品(5冊)の中には、歴史のなかに埋もれてしまったさまざまな事実と感動的なシーンがありました。あまりに多くの感動的なシーンのすべてについて、このホームページではとり上げ切れませんが、その中から、以下のとおり「ハイライト&エピソード」としてまとめました。ご購読の前にお読みください。表題や右に掲げた「その他のキーワード」をクリックすると、該当ページにリンクします。
 
      《四街道の御鹿狩伝説
      《池田筑後守の開国建言書
  ・徳川幕府とフランス政府による大プロジェクト その1
     (横須賀製鉄所の建設
  ・徳川幕府とフランス政府による大プロジェクト その2
      《パリの徳川昭武
 
 なお、「ハイライト&エピソード」では、十分に説明が尽きているとは言えません。正確な、あるいは詳細な内容については、それぞれの著書をお読みいただければ、ご納得いただけるものと思いますので、是非ご購読いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。
【その他のキーワード】
 
 

※「著書のハイライト&エピソード」の内容と資料の引用について
 ここに記載した内容は、推測を避け、すべて一次資料や信頼できる論文などに基づくことを原則としています。以下の内容は、各著書の内容の一部を抽出して掲載したものですが、それぞれの著書で引用させていただきました数千点の資料に基づいています。但し、本ページではそれらの引用資料を記載し切れないため、引用資料を省略させていただいております。引用資料をご覧になりたい方は、是非ともそれぞれの著書をご購読いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

※当サイトに掲載されているすべての画像、文章の無断使用・転載を禁じます。

 
 
 

「徳川将軍の小金原御鹿狩」から

 
 
徳川将軍の小金原御鹿狩~勢子人足の御鹿狩
 
七手に分けられた勢子人足は、49か所の揃所(赤点)に集められたあと、嘉永2年3月16日の早朝揃所を結ぶスタートラインに立ち並び、大砲の合図で2泊3日の野宿をしながら追い立てを開始した。(国立公文書館所蔵「大狩盛典」より転載)
 
猪鹿を追い立てる勢子人足
(ChatGPTによる生成画像)
 徳川将軍による下総国葛飾郡の小金原における御鹿狩は四たび実施されました。第1回は享保10(1725)年、次いで同11年に第8代将軍徳川吉宗が行い、寛政7(1795)年さらに嘉永2(1849)年をもって終焉しました。徳川吉宗は太平に慣れ親しんでしまった旗本の気風引き締めと軍事力の強化の一環として始めたと言われています。そのような視点からこの御鹿狩は研究対象とされ、徳川将軍の御成と、御狩場における旗本たちの勇壮華麗な働きに焦点が置かれています。
 
 しかしながら、この御鹿狩には舞台となった下総国はもちろんのこと、常陸国や武蔵国から大勢の百姓勢子人足による野宿をしながらの鹿や猪などの追い立てがなければ成り立たちませんでした。
 拙著「徳川将軍の小金原御鹿狩」では、小金原におけるメインイベントの御狩場の様子はもちろんのこと、それに至るまでの幕府における1年以上にわたる準備と、百姓勢子人足による追い立ての実態を、今に残る古文書を駆使して、御狩場の御鹿狩の舞台裏から、御鹿狩の檜舞台の華やかな様子、百姓勢子人足を差し出す村々の準備から追い立ての実態を含めた、小金原御鹿狩の全貌を詳細に解説しています。
 そして拙著では、そこから見えてきた村役人や勢子人足の当時の様子を想像し、フィクションとしてのショートストーリーも掲載しています。主人公は、幕府によって任命された105人の世話役の一人となった印旛郡長岡村(現在の四街道市長岡)の名主治郎左衛門の養子で、のちに家督を継ぐことになる十助です。

【十助の御鹿狩】
 嘉永2(1849)年3月15日、印旛郡長岡村(現四街道市長岡)の十助は、小金原御鹿狩の世話役を勤める養父治郎左衛門を手助けするために、日の出前の暗いうちから大忙しだった。十助は印旛沼のほとりにある村の名主の家に生まれ、5年前の弘化1(1844)年に井岡次郎左衛門家の跡継ぎとして養子に迎えられていた。(中略)養子に入る前年の天保14(1843)年2月5日、19歳の時に仲間とともに実家を後にして、西国へ旅立ち、5か月半の大旅行を経験し、体力には自信があった。
 この日は、3日後に迫った第12代将軍徳川家慶(いえよし)による小金原(現在の松戸市小金原)での御鹿狩に合わせて、印旛郡や千葉郡、さらに遠方の利根川下流域の香取郡の村々から、大勢の百姓たちが村役人とともに猪や鹿の追い立てにかり出され、物井村の香取神社前に集められていた。

 物井村の香取神社前には、幕府の役人の詰め所となる「揃所」が設けられており、明日からの追い立てに備えて集まってきた勢子人足たちは、到着次第、村ごとに幕府の御鹿狩役人の前に連れ出され、点検を受けた。
 幕府は揃所ごとに、葛飾郡・相馬郡・印旛郡・千葉郡からかり出された「御場(おば)内村々の勢子人足」と、遠手から差し出された「御場外村々の勢子人足」を組み合わせ、御場内の村々では御場外の村々に何かと便宜を図ってやるように配慮した。「五の手物井村香取前揃所」と名付けられたこの揃所には、印旛沼南部の下野牧周辺の御場内村々の勢子人足と、遠手の香取郡の利根川下流域からかり出された御場外村々の勢子人足が集まった。

 かくして、十助は、世話役の養父治郎左衛門を支えながら、二泊三日の追い立てと夜番の野宿の末に、小金原に御成になった第12代将軍徳川家慶による御鹿狩を、七手に分けた5万人の勢子人足と共に見物するのです。

 さて小金原御鹿狩はどのように行われたのでしょうか。
 小金原御鹿狩の全貌を知りたい方は拙著「徳川将軍の小金原御鹿狩」をお読みください。
 
嘉永2年3月18日、小金原に徳川将軍家慶が御成になり、御鹿狩が執り行われました。その前々日の3月15日に、七手に分かれた5万人の勢子人足は、49か所に設置された揃所(図の赤丸)のうちの定められた揃所に集められました。そして、翌早朝、揃所を結ぶスタートラインに立ち並び、小金原の御狩場に向かって2泊3日の追い立てを開始し、下総台地を揺るがす壮大なパノラマが展開されました。      (大矢敏夫作図)
 
 小金原の御狩場の周辺には七手5万人の勢子人足が取り囲み、その内側の御狩場では旗本たちがそれぞれの持ち場で御狩の御役を勤めました。
 詳細は拙著「徳川将軍の小金原御鹿狩」をお読みください(国立公文書館所蔵「大狩盛典196」収載図)。
 
 
 
御狩場の徳川将軍と旗本たち
 
将軍の御立場の様子を描いた「千代田之御表 小金原牧狩立場ノ図」(国立国会図書館ウエブサイトより転載)
 
弓の名人が活躍した騎射場の風景江御描いた「千代田之御表小金原牧狩ノ図」(国立国会図書館ウエブサイトより転載)
 
獲物は鹿、猪、兎、狸などで、江戸城に運び、家臣に与えました「小金原引き上げ之図」(国立公文書館所蔵ウエブサイトより転載)
 
 御鹿狩終了後、人々が見守るなか、将軍家慶は巡見道脇に積まれた「悦」の酒樽を勢子人足に洩れなく与えるよう家臣に念を押しています。また、御成・還御の往来では勇壮華麗な将軍の姿を見せつけ、追い立ての勤めを果たした勢子人足に限らず、妻子などにも御狩場での見物を許し、「イヨー親玉」と声をかけられれば、「近う寄れ」と見物人を喜ばせました。さらに、万人が見守るなかで高齢者への褒賞を与え、彼らは涙を流して白銀を受け取っています。このように、将軍家慶は仁恵ある将軍を演ずることによって、幕府の威光を示そうとしたのでした。
 嘉永2年3月18日の御狩場における旗本たちの役割分担
(国立公文書館所蔵「大狩盛典」より抜粋)
【大番・小性組・書院番による向勢子と追駈勢子】
向勢子は七手の百姓勢子人足が追い込んできた猪鹿を、歩行前進して御狩場中央に追い込みます。その猪鹿を後ろから追駈騎馬が騎射場に追い詰めます。
【大番・小性組・書院番による歩行勢子】
歩行勢子はほら貝の合図で「どんどんどん どんどんどん どんどん どん」の三つ拍子の太鼓に合わせて、猪鹿が御狩場から逃げ出すのを喰い止めます。
【騎射場と騎射勢子】
小性・書院番・大番小納戸などの旗本の中から選ばれた弓の精鋭13人の騎射勢子が、御狩場中央の四本松に囲まれた騎射場に登場し、追い込まれてきた猪鹿を騎馬で射止めます。
 
このあと、小納戸方による御犬の狩りと、御鷹匠による狩りが実施されました。
 
【小性組による駈騎馬】
【書院番による駈騎馬】
駈騎馬の役目は、追い込まれてきた猪鹿を、御立場左右の猪網の方へ追い詰め、突き留めることです。
【将軍家慶の登場】
最後に、御立場の左手わきから将軍の御狩を補佐する小性・小納戸・中奥小性・中奥番の奥向きの番方からなる御前騎馬(奥騎馬)に守られながら、愛馬「金目」の乗馬した将軍家慶が登場し、槍で2匹の兎を槍で突き止めました。
 
 
 
四街道と小金原御鹿狩~勢子人足を中心に
 
 私は四街道市長岡地区の井岡家に残る嘉永2年の小金原御鹿狩に関する22点の古文書を詳細に調査いたしました。それらの古文書の内容は、主として幕府の触書の書写や百姓勢子人足が勤めるべき規則その他さまざまな記録などです。しかし、文書に記載されている御鹿狩に関する用語のみならず、そこに記載されている内容や、そのような文書が作成された意図や背景については分からないことが多く、井岡家文書のみでは小金原御鹿狩を理解することができませんでした。そこで、私は千葉県内はもちろんのこと、御鹿狩に関わった常陸国(茨城県)・武蔵国(東京都・埼玉県)の資料、国立公文書館所蔵の「大狩盛典」に代表される幕府が残した資料や元旗本家の古文書などを調査し、比較検証し、総合化した上で、少なくとも嘉永2年3月の小金原御鹿狩の全貌を解き明かしたつもりです。
 さらに、四街道市域における勢子人足の役割や彼らが行った追い立て方の実態を解き明かすとともに、勢子人足が残した記録などを頼りに、彼らの心情を理解するに至りました。以下では、彼らの追い立て方の概要を図で示したいと思います(「古文書が伝える江戸時代の四街道」より)
 
 

 上記の絵図は七手のうち、現在の四街道市域にあった揃所を含む五の手の追い立て地域を中心に描いたものです(大矢敏夫作図)。
 五の手は、隣接の四の手と六の手と連携しながら、下総台地の中央を通過して一直線に小金原に向けて追い立てることになります。
 2泊3日の追い立ては、3月16日の明け方六つ時(午前6時ごろ)にスタートし、昼食休憩となる細見所まで追い続け、昼食のあと再びスタートし、日暮れになれば夜番細見所で野宿をしながら夜明けを待つのです。
 2日目の夜番細見所は将軍の御立場まで2000mにある踏み止め場で夜番をします。そして将軍御成の3日目の早朝には、お立ち場まで1200mに設置されている柵まで追い立てると、あとは将軍や旗本の御狩を見物するのです。
 
 
 
 
(大矢敏夫作図)
【四街道市域の勢子人足】
 嘉永2年の小金原御鹿狩にかりたてられた5万人の勢子人足は七手に分けられ、49か所のうちのいずれかの揃所(集合場所)に配置されました。四街道市域には、五の手の物井村字香取前揃所と和良比村字三王山揃所、さらに六の手の小名木村字遠源太堤木戸内揃所の3か所が設置されました。それぞれの揃所には、追い立て地域に当たる御場内村々である印旛郡・千葉郡のほか、揃所まで1~2日かかる遠手地域の香取郡の村々からかり出されました。
  物井村字香取前揃所  80か村から  2267人
  和良比村字山王山揃所 72か村から  1465人
  小名木村字遠源太堤木戸内揃所
             59か村から  1541人
   合計        211か村から 5273人
 私は、四街道市域にあった当時の16の村の人口は精々4000人と推定しています。
 嘉永2年3月15日から16日の僅か1~2日ではありましたが、地域の人口を上回わる勢子人足が集められたため、きっと大混乱を引き起こしたことでしょう。
 また、211か村のうち114か村は香取郡の勢子人足で、勢子人足数は3473人と、合計人数の過半数を占めていました。従って、彼らは小金原の御狩場までの2~3日の野宿の前に、1~2日の余計の行軍を強いられたのでした。
 
 なお、四街道市域の16の村は268人の勢子人足を出しています。勢子人足数の内訳は以下のとおりです。
  五の手羽鳥村字南原馬捨場揃所に、亀崎村25
  同 物井村字香取前揃所に、
     物井村37、長岡村5、合計42
  同 和良比村字三王山揃所に、
     鹿渡村22、栗山村18、内黒田村14
                    合計54
  六の手小名木村字遠源太堤木戸内揃所に、
     小名木村21、和良比村13、山梨村46、
     和田村3、上野村3、吉岡村31、
     南波佐間村7、中台村17、中野村2、
     成山村4           合計147
 
 四街道市域の村々の勢子人足の追い立て方については、拙著「古文書が伝える江戸時代の四街道」をお読みください。
 
《四街道の御鹿狩伝説》
 
鹿放ケ丘は御鹿狩に因む地名か?
 
 四街道市域に「鹿放ケ丘(ろっぽうがおか)」という地名があります。この地名から、四街道で御鹿狩が行われたとの俗説があります。戦後に陸軍演習場跡地を開拓民が「鹿放ケ丘」と言い換えたために誤解が生まれたのではないかと思われます。
 そもそも、この地は往古から「六方野」と呼ばれた地域です。六方野は、東・西・南・北・天・地の「六方」に広がる原野という意味です。 千葉市域に「六方」という地名がありますが、本来の地名が失われるのは残念です。
 後に取り上げるように、一帯で御鹿狩が行われたという伝承があったことは間違いないようです。しかし、これまでそれを証明する資料がありませんでした。ところが、古文書の整理の過程で、それを示す資料があったのです。四街道市が所蔵する屏風下張り文書の中から発見しました。
これについては、「六方野」のところで説明しますが、文化11年9月18日(1814年10月30日)に佐倉藩主堀田正愛が家臣数十人を御供にして、六方野で御鹿狩を実施していたのでした。
 佐倉藩主は佐倉城と、寒川御蔵や江戸への船路の湊となった登戸(いずれも現在の千葉市)との往復や、遠馬のためにしばしば六方野を訪れています。そして場所は不明ですが、六方野には佐倉藩主の遠馬の休息場が設けられたようです。 
小金原御鹿狩では六方野に小金牧の野馬が囲い込まれた!
 
 佐倉藩主による御鹿狩が行われたことは確かですが、徳川将軍による御鹿狩は六方野ではなく小金原でした。但し、六方野はその後背地として役立てられたことは間違いありません。
 下総国には幕府の軍馬を確保するために数千頭とも言われる野馬(のま)が放牧されていました。放牧とは言っても、餌などの世話をするのではなく野生同様で、わずかに野馬奉行や百姓身分の牧士(もくし)によって保護されていたものでした。
 小金原御鹿狩においては、小金5牧(高田牧、上野牧、中野牧、下野牧、印西牧)の野馬は、百姓勢子人足の追い立て地域にあり、野馬はその障害となり、また野馬の安全のためにも、これを避けなけれななりませんでした。
 そこで幕府は、六方野に「野馬囲い」を築造し、一時的に野馬をここに追い立てて囲い込みました。御鹿狩の2か月前、現在の我孫子市・柏市・松戸市・市川市・船橋市などの百姓に野馬の追い立てを命じ、千葉市・四街道市など六方野周辺の百姓には囲い場の築造を命じたのでした。野馬は御鹿狩前後の5か月ほどの間、六方野に囲われ、その後、再びそれぞれに移送されました。
 詳しくは「古文書が伝える江戸時代の四街道」をお読みください。
 
 

「ルボン山と町打場の物語」から

 
 
下志津原と佐倉藩町打場と下志津原陸軍大砲演習場
 
千葉県立中央図書館所蔵「佐倉藩砲術練習場絵図面」
(千葉県デジタルアーカイブより)
 
下志津原大砲演習場発射地周辺図
(国立公文書館所蔵「公文録、明治9年第37巻」の一部)
 
大正期の下志津原大砲演習場(「下志津名所絵葉書」のうち)
二本松(現在のサンビックゴルフセンター辺)から約2キロ先のルボン山(○印)を望む
 
ルボン山の麓にある「砲兵射垜の跡」碑
標識には「大土手山」とあるが、次項で紹介するとおり、名称は「ルボン山」でなければならないと私は考えています。いつ、だれが、なぜ「大土手山」と名付けたのか。この「ルボン山」を西端として、これに連なる射垜(大土手)が現在の文化センターの駐車場まで続いていました。これを「大土手山」と呼んだのではないかと思いますが、今や確認のしようがありません。
 
現在の「ルボン山」(大矢敏夫撮影)、南側からの眺め
 
「日本砲兵揺籃の地」の碑(大矢敏夫撮影)
【異国船に揺れる幕府】
 江戸時代の寛政期にロシアのラクスマンやレザノフが来航し、徳川幕府の日本沿岸警衛は緊急かつ重大な局面を迎えました。その後、文化5(1808)年のイギリス海軍フェートン号来航により、幕府は本格的に海防を強化するに至りました。
 房総最大の譜代大名である佐倉藩堀田家もまた他藩と共に沿岸警備を義務付けられ、文化7(1810)年8月にロシア船が常陸国鹿島郡・茨城郡沿岸に来航した時には、援兵派遣を命じられました。
 文政5年4月、イギリスの捕鯨船サラセン号が洲崎沖に来航したことから、文政6(1823)年9月には、異国船の房総沿岸来航時に佐倉藩と久留里藩に対して出兵するよう命じられました。さらに、文政8年2月、頻繁に来航する異国船に対して、幕府は砲撃を加え撃退するよう命じました(無二念打払令または異国船打払令)。
 
【佐倉藩町打場の開設】
 このような状況において、翌々月の4月に佐倉藩は幕府に伺い書を提出し、佐倉城近辺に町打場(ちょううちば、砲術稽古場)の開設を願い、許されました。これにより、佐倉藩は天保10(1839)年10月に下志津原周辺村々との協議を開始し、翌天保11年2月に合意が成立して築造工事が開始されました。すなわち、下志津村木戸場(現在の佐倉市)に発射場を設けて、長さ(40町)4360メートル、巾3~400メートルの町打場が完成したのでした。以後、幕末に至るまで佐倉藩は下志津原において、砲術方による砲術稽古と、近代的な大砲による試し打ちや弾薬の実験を積み重ねることになりました。これを契機にして、佐倉藩の軍事体制は次第に整備され、幕末の戊辰戦争において、その実力が証明されることになりました。
 
 左図は、天保11(1840)年2月に作成された佐倉藩町打場の絵図です。北方の発射台から1町(109メートル)ごとに●が付され、南端の40町目にも付されています。おそらく、現地にも同じ位置に標識が建てられ、着弾距離を確認しながら、大砲の稽古を行っていたのではないかと思われます。
 また左図で見るとおり、この下志津原には佐倉城や千葉町と周辺の各村を結ぶ街道(赤線)が交錯しています。南部の赤色で彩られた一画の右下に「四つ角」が見えます。これが後に「四ツ街道」と呼ばれ、さらに現在の四街道市の名称発祥地となります。
 
【ルボンが下志津原陸軍大砲演習場を築造】
 明治政府は近代的な陸軍創設をフランス陸軍軍事顧問団に委ねます。明治5(1872)年4月に来日した顧問団の一員として、ジョルジュ・ルボン砲兵大尉は、佐倉藩が築いた町打場を近代的なフランス式の大砲演習場に造り変えました。発射台や砲術方の詰所などがあった北端一画を改造し、西洋式の建物を建設するとともに、南端に巨大な射垜(弾丸の的用の土手)と、その西端に15メートルほどの小山を築きました。小山は後に「ルボン山」と命名されます(次項「ジョルジュ・ルボンと『ルボン山』命名の瞬間」参照)。
 
 明治19(1886)年4月、明治陸軍は下志津原の大砲演習場に陸軍砲兵射的学校を開校しますが、明治27(1894)年12月に総武線四ツ街道停車場が開業すると、明治30(1897)年4月に同校は停車場に近い南端に移転し、名称も陸軍野戦砲兵射撃学校と改めました。
 実は、この移転までの2年半の間、何と、北方四キロ先の陸軍砲兵射的学校の発射場から四ツ街道停車場に弾丸が飛来し、駅長は慌てふためく乗客や駅員をプラットホームの影に避難させました。さらに駅長が社宅に帰って食事をとっていると、弾丸が飛来して目の前のお膳の茶碗を破壊し、さらに2個の弾丸が室内に飛んできた、というのです。駅長からの訴えを聞いた総武鉄道の本間社長は、このようなことでは旅客の生命を守れない、鉄道の営業にも差し支える、と陸軍大臣の大山巌に2個の弾丸を添えて願書を提出したのでした。
 
 陸軍野戦砲兵射撃学校が停車場近くに移転し、帝都東京からのアプローチが容易になり、明治天皇の行幸や皇太子殿下の行啓を仰ぐ機会が増え、また皇族や陸軍幹部の来校も頻繁に行われました。
 また全国から選抜された野戦砲兵射撃学校の生徒は勿論のこと、近衛師団、東京鎮台、教導団、その他諸隊の大砲演習や野営演習など多くの兵士による数週間・数か月の演習が行われ、彼らの宿所としての下志津廠舎と栗山廠舎が設置されるに至りました。
 当然のことながら、彼らを支えるための旅館・飲食店のほか、さまざまな職種の商店が開業し、村はずれの原野に過ぎなかった停車場周辺は町場となり、“軍郷四街道”が誕生しました。 
 
【明治のころの下志津原】
 今の下志津原はほぼ完全に住宅街ですが、“軍郷四街道”と呼ばれた当時の在りし日の下志津原は、原野の自然を楽しみたいと考える人々にとって、東京からの観光地のひとつでもありました。大正10年10月18日発行の永渓早陽著「最近実査 東京から」の一節を抜き書きしておきましょう。全節を読みたい方は、拙著「ルボン山と町打場の物語」をお読みください。

 東京に近くて、秋草の咲満ちた処は、武蔵野鉄道の保谷から先と総武線の千葉から先だと私はいひたい」と述べ、「あたりには瞿麦(なでしこ)・萩・男郎花(おとこえし)・女郎花(おみなえし)・葛・桔梗(ききょう)・莧草(かるかや)・芒(すすき)・地楡(われもこう)等が今を盛りと咲乱れ、時々低地に田を見、人家が極稀な処を走る。そして四里余で四街道に達し、再び秋草や山百合の多いあたりを下って、次の佐倉駅までは五里もある、村落が発達してないから、駅間が遠いのだ。
 四街道は千代田村の一部であって、野砲の一個連隊と射撃学校との所在地として発達した特殊の市街で、近来野砲が二個連隊となり、又航空学校の分校も竣工する筈となって一層町家が増加した。軍隊町といってよかろう。
 此章の題にした下志津原は四街道の北である。悉(くわ)しくいへば、広い、野砲兵が実弾射撃をする原は、動的牽引所・小深(こぶけ)台・宇那谷以北を下志津原といひ、其以南を六方野原と称し、長沼以西を三角原といふのだが、私は此三つを合せていふのだ。
 原には秋草が非常に多い、特に長沼池附近には竜胆(りんどう)が一面に花を開く、単に原ばかりではない、車中で見た様子は此附近至る処で見られるのである。それから原の中には処々に林があって、その林や、原以外の林にも、春は蕨が無尽蔵にあるし、秋は小松林の下に初茸がとれる。
 桔梗は東京に接近した処にはあまり野生してゐるのを見ないが、此辺には多くて、早いのは七月から、晩いのは初茸の頃迄咲く。山百合は格別珍しくもないが、四街道から佐倉へ行く途中など非常に美しいし、林間の路などを歩いてゐると、どこからともなく快い、高い山百合の香が襲ってくる。そして、秋草の眺や初茸狩、蕨とりの景物に、野砲兵の実弾射撃と飛行機とがある。

【四街道の空に飛行機が】
 ここにある「飛行場」というのは、大正10(1921)年4月1日に開校した陸軍航空学校下志津分校のことです。そのきっかけは、第1次大戦で軍用飛行機が活躍したことから、大正8年1月に陸軍はフランス遣日航空教育軍事使節団を招聘したことに始まります。使節団は、操縦班(各務(かがみ)ヶ原)、射撃班(浜名湖新居)、爆撃班(三方が原)、偵察班(下志津原)、機体製作班(所沢)、気球班(所沢)、検査班(東京砲兵工廠)、発動機製作班(東京砲兵工廠)の8班に分かれ、それぞれに適した練習地において実施されました。
 偵察班が演習場として選んだ場所が六方野でした。陸軍は下志津原演習場で行われる大砲演習に合わせて、空中から砲撃目標を確認し、両者連携で演習が行える最適地と考えたのです。偵察班は下志津原演習場の西に隣接する六方野原(現在の千葉市山王辺り)に臨時空中偵察観測学校を開校しました。
 大正8年3月19日、偵察班の主任グザヴィエ・フリューリー少佐ほかフランス人教官らが四街道駅に到着し、陸軍野戦砲兵射撃学校の将校集会場を宿所としました。この時鉄道連隊は、四ツ街道停車場と六方野の臨時空中観測学校との間に軽便鉄道を敷設しました。
 この時の町の歓迎ぶりは大変なものでしたが、四街道小学校の生徒たちはフランス国歌ラ・マルセイエーズを合唱して歓迎しました。
 
 このような経緯もあって、大正10年には陸軍航空学校下志津分校が開校したのですが、その位置はフリューリー大佐らが教えた臨時空中観測学校から南にあり、現在の自衛隊下志津駐屯地に当たります。
 大正15(1926)年7月19日、皇太子殿下裕仁親王が二度目の四街道を訪れ、陸軍下志津飛行学校修業式に行啓されました。
 
 なお、下志津原北端の元陸軍砲兵射的学校があった佐倉市下志津原の字木戸場には「日本砲兵揺籃の地」の碑が建っています。そして、南端にあるルボン山の裾には「砲兵射垜の跡」の碑が建っています。残念ながら、二つの石碑に刻まれている碑文には一部誤りが見られます。
 
 佐倉藩町打場その他本項の詳細については、「ルボン山と町打場の物語」をお読みください。
 
 
 
ジョルジュ・ルボンと「ルボン山」命名の瞬間
 
ChatGPTが描いたルボン砲兵大尉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大正期のルボン山北側からの眺め、東側に大土手が連なる(「下志津名所絵葉書」より)
【ルボン(Georges Lebon)、再び四街道に来る】
 明治45(大正1、1912)年9月23日午後0時4分、総武鉄道四ッ街道停車場に高齢のフランス人紳士が降り立ちました。彼の名はフェリクス・フレデリック・ジョルジュ・ルボン将軍です。ルボン将軍に従って来たのは、息子ジャック・ルボン中尉と野砲兵第一三連隊付武官ルノンドウの二人でした。10日前の9月13日にルボン将軍は明治天皇の大喪にフランス国代表として出席した後、懐かしいこの地を訪れたのでした。
 
 遡ること40年前の明治5(1872)年4月、彼はフランス陸軍軍事顧問団の一員として来日した砲兵大尉でした。彼は陸軍少輔山縣有朋の要請に応えて、下志津原にフランス式の近代的な大砲演習場を築造しました。そして、その南端に砲弾や銃弾の射垜(しゃだ、大土手)とその西端に「小山」を築造しました。その思い出を胸に、明治天皇の大喪を機にわざわざこの地に足を運んだのでした。
【ルボンの業績】
 彼は明治陸軍の創設に携わり、山縣有朋の期待に応え、砲兵教育のみならず、造兵すなわち兵器製造所を建設して、兵器製造技術の指導に当たるとともに、陸軍の組織編制や陸軍士官学校の開設にも携わりました。それだけではなく、日本沿岸を視察して海岸防禦策の立案にも寄与するなど、陸軍創設にさまざまな貢献を成し遂げた人物です。彼はまさに、大村益次郎と並ぶ日本陸軍創設の功労者であり、また横須賀製鉄所(造船所)を建設して海軍創設の功労者である同じくフランス人のフランソワ・ヴェルニーと並ぶ日本の富国強兵の功労者でもありました。
 
【「ルボン山(Lebon-Yama)」命名の瞬間】
 四ツ街道停車場には、先着していた陸軍省の教育総監部の将官や、陸軍野戦砲兵射撃学校の教官が出迎えていました。ルボン将軍は彼らに導かれて、特別手配の人車に乗り、陸軍野戦砲兵射撃学校の校門前で下車しました。
  ルボン将軍は校内を巡視したあと、学校の北側に40年前に彼が築いた「小山」の頂上に立ち、若き日の思い出に浸りました。
 ルボン将軍の陸軍野戦砲兵射撃学校訪問の翌9月24日、報知新聞は彼の談話を報道し、28日付の The Japan Weekly Mail にも同様の記事が掲載されて、世界各国に伝えられました。
 久しぶりにこの地を訪れたルボンは、自ら築いた「小山」の頂上で四方の景観を眺めて立ち尽くしました。そばにいた野戦砲兵射撃学校長の河北榮太郎大佐が、「ルボン山」と書かれた高さ六尺の木標を建てると、感動したルボン将軍は校長と固く握手を交わすのです。ルボン山」命名の瞬間でした。
報知新聞に掲載されたルボン将軍の四街道視察時の記事切抜き
 
 明治33(1900)年6月と同45(1912)年5月、明治天皇はルボン山や野戦砲兵射撃学校に行幸されました。そして、行幸から僅か2か月後の明治45年7月30日に崩御され、9月13日に大喪が執り行われました。この時、ルボン将軍がフランス国代表として出席したのでした。
 大正7(1918)年5月には、後に昭和天皇となられる裕仁親王が四街道の行啓され、ルボン山の頂上から陸軍の演習をご覧になりました。
 
 今や、ルボン山は史蹟というよりも、市民の休らぎの場所であり、展望台に過ぎません。人々からその歴史は忘れ去られており、ジョルジュ・ルボンによって築かれたことすら知る者は少ないようです。私は、ルボン山命名の謂れやルボン自身のこと、とりわけ知られざる彼の日本への貢献について、また郷土の史跡の意味にもっと注目してもらうとともに、幕末・維新の日本の歴史に関心を持っていただきたいと切望しています。
 
 ルボンとルボン山については、拙著「西洋との遭遇 幕末・維新アナザーヒストリー下巻」と「ルボン山と町打場の物語」に詳しく解説しています。
 
「ルボン山」命名の瞬間
ChatGPTが描いた「ルボン山」命名の瞬間
明治45(1912)年9月13日の明治天皇の大喪の儀式に、フランス国代表として来日したジョルジュ・ルボン将軍は、帰国を前に9月23日に四街道を訪れ、自ら築いた「小山」の頂上に立ち、若き日を回顧して感慨にふけっていました。すると、側にいた陸軍野戦砲兵射撃学校長の河北大佐は、頂上に「ルボン山」と記された木標を建てさせましたが、感激したルボンは河北大佐の手を取り、固く握手をしました。これが「ルボン山」命名の瞬間でした。現在「大土手山」と呼称されていますが、本当の名は「ルボン山」です。おそらく、先の大戦で敵国となったフランス人の名を冠した名称を改めたのではないかと推測されます。地元の古老は「ルボン山」と呼んでいたことを伝えています。なお、ルボンは現在の「ルボン山」の東側に長大な大土手を築いており、その東端は現在の文化センターの駐車場にまで伸びていました。終戦後に、その土手は破壊され、「ルボン山」だけが残されたのです。よくぞ、残してくれたと、心から感謝しています。
 
 
《ルボン山の位置》
明治から終戦までの間、ルボン山の東側に大土手が連なっていましたが、戦後大土手を破壊して、「ルボン山」だけが残りました。
大土手は現在の文化センターの駐車場まで伸びていました。
 
 
 
六方野~御鹿狩と陸軍演習
 
 江戸時代の六方野(太線部分)。六方野は広大な原野であり、東・西・南・北・天・地の「六方」に広がる原野でした(国土地理院の地図に周辺村々などを加筆)。 六方野の開発は江戸時代初期の寛文12(1672)年の長沼新田の起立が最初です。その後、川野辺新田や小深新田等が開発され、江戸時代の後期では中央の南北に細長い地域が原野のまま残され、周辺の村の秣場(まぐさば)となっていました。
 
 

 
明治19年陸軍迅速測図に書き込み
 
 
 
 
佐倉藩主が六方野で御鹿狩】
 既述のとおり、猪や鹿や狐狸が棲む江戸時代の六方野には、文化11(1814)年に佐倉藩主堀田正愛が御鹿狩を行った記録が古文書に残されています。
 佐倉藩主は寒川御蔵や江戸への船路の湊となった登戸(いずれも現在の千葉市)の往復や、遠馬のためにしばしば六方野を訪れており、場所は不明ですが、六方野は佐倉藩主の遠馬の休憩場にもなっています。 
 また小金原(現在の松戸市)における徳川将軍の御鹿狩では、小金牧の野馬(のま)が勢子人足による猪鹿の追い立ての障害となるため、数百数千の野馬が六方野に囲い場を築造して、そこに一時的に移され、囲われました。
 広大な原野であった六方野の開発は、寛文12(1672)年に江戸の商人たちが幕府に願ったことに始まり、800町歩を超える秣場(まぐさば)が開発され、長沼新田が誕生しました。さらに、小深新田川野辺新田などが開発されましたが、それ以外の地域は明治時代まで原野のままで、人が住み、畑地ができることはありませんでした。
 
【六方野を明治陸軍が演習場に】
 ここに目を付けたのが、明治陸軍でした。六方野の東側に隣接する下志津原(志津野とも)は佐倉藩が町打場として利用し、また明治陸軍が大砲演習場に造り変えました。しかし、大砲の性能の向上とともに、下志津原だけでは十分ではなくなり、西に接続する六方野まで拡張されました。また六方野は大砲演習場としてだけではなく、野営演習の適地でもあり、諸団の軍事演習の場として利用されました。
 明治天皇は明治33年と明治45年の二度にわたって、四街道に行幸され、野戦砲兵射撃学校への視察と合わせて、六方野の小深台に設けられた御覧所(御野立所)において、大砲の轟音を間近に受けながら、諸団の対抗演習をご覧になりました。その位置はおそらく現在の宥妙寺の辺りと思われますが、今はその跡形も残っていません。実に残念なことです。
 
権現山と大日山】
 六方野は陸軍の演習場となったことから、大砲の激しい砲撃などで土地の形状も変わり果ててしまいました。戦後開拓され、人が住み農地が耕されて、いにしえの六方野の面影は全く失われてしまいましたが、平坦な地域にわずかに残っている小高い大日山に多少の面影が見られます。
 江戸時代には大日山を権現山と呼んでいました。宇那谷村の古文書によれば、この権現山の境内は徳川幕府の宛行地(あてがいち)であり、村役人がお礼のため4年ごとに江戸城に登城していたということです。
 権現山の由来に、権現様すなわち徳川家康が東金での鷹狩りに行く途中に立ち寄った時に造営された、という伝承がありますが、それは間違いのようです。「権現山」の名前は「出羽三山」に由来しています。権現山は「湯殿山大日権現」が祀られた神社だったのです。今は、それすら忘れ去られています。
 左図は明治15(1882)年の陸軍迅速測図に権現山神社の境内域を書き加えたもので、今は開拓の人々によって、鹿放ケ丘神社が建立されています。
 
大日山(元権現山)の境内域
(明治15年陸軍迅速測図に書き込み)
 
 六方野については、拙著「ルボン山と町打場の物語」で詳しく解説しています。
 
 
 
“軍郷四街道”への明治天皇の行幸と皇太子殿下の行啓
 
明治33年6月の明治天皇の四街道行幸(大矢敏夫作図)
 
明治45年(大正1年)の明治天皇の行幸(大矢敏夫作図)
 
大正7年皇太子殿下裕仁親王行啓時の軽便鉄道路線
(大矢敏夫作図)
 
大正6(1917)年陸地測量部作製の「下志津原」と「四街道」を合成した“軍郷四街道”周辺部の地図に加筆した
陸軍野戦砲兵射撃学校の念願~天皇行幸】
 明治19(1886)年4月、下志津原大砲演習場の発射台近くに、陸軍砲兵射的学校が開校しましたが、陸軍はそれ以来何度か天皇の同校への行幸を願っていました。しかし、残念ながら、下志津村木戸場は帝都からのアプローチが不便なため、行幸は叶いませんでした。
 そのころ、陸軍は鉄道会社との間で、千葉県各地に散在していた軍事施設を帝都と結ぶ鉄道の創設を画策していました。陸軍としても、同校における砲兵技術と砲兵演習の進歩の様子をご覧に入れたいと、予てから強く願っていました。
 明治27(1894)年7月、総武鉄道が本所・佐倉間の鉄道を敷設し、同年12月9日に四ツ街道停車場を開業しました。そして、これを機に砲兵射的学校が四街道停車場の近辺に移転し、陸軍野戦砲兵射撃学校と名称を変えて開校しました。砲兵射的学校は天皇の行幸を仰ぐにはあまりにも遠隔で交通不便でしたが、これにより帝都へのアプローチが飛躍的に改善したのでした。これこそ、四ツ街道停車場開業の真の目的だったと言えます。
 
【念願実現~明治天皇の行幸】
 明治33(1900)年6月19日、野戦砲兵射撃学校の念願が叶い、はじめて明治天皇の四街道行幸が実現しました。
 10時40分、御料車が四ッ街道停車場に到着し、明治天皇が四街道の土を踏まれ、礼砲が鳴り響きました。そして参謀総長の大山巌侯爵以下文武高等官ら200余人がお迎えし、野戦砲兵射撃学校の職員や砲兵連大隊長、学生・士官らが奉迎しました。もちろん、周辺の村々の役人が参列し、大勢の見物人も遠巻きに歓迎しました。
 明治天皇は直ちに御馬車に乗御され、まずは六方野の小深監的に設けられた御覧所(御野立所)に向かわれました。午前11時に六方野の御覧所に臨御されると、千葉県知事や旧佐倉藩堀田伯爵に謁を賜われました。
 なお、現在の地図と照合すると、この御覧所の位置は現在の四街道市鹿放ケ丘にある宥妙寺辺りに当たります。
 そして、明治天皇は野砲・山砲による戦闘射撃演習のすさまじい轟音に包まれて、約2時間の演習をご覧になりました。その後、校長の先導で六方野をあとにされ、午後0時30分に陸軍野戦砲兵射撃学校に着御、同校の将校集会所の二階に設けられた「便殿(びんでん)」(行幸時の休息所)において昼餐をとられました。校内で射撃の成績や弾薬の効果などの説明を受けられたあと、3時50分に四ッ街道停車場を発車され、5時53分に宮城に還御されました。
 
 実は、この行幸を執り行った宮内庁は日帰りではなく、天皇のお身体を心配して一泊の行幸を検討していました。しかし、四ツ街道で現地調査をしたところ、次のような理由で日帰りとなったのでした。
 「四ッ街道の民屋は何れも狭縮にして適せす、村落は小深新田、鹿渡、栗山等あるも、学校より千乃至二千米突(メートル)を隔てありて不便多く、且 一二のものを除くの外茅葺にして到底望み無きものと信ず」と。
 この時、明治天皇に四街道お泊りが実現しなかったことは残念至極です。
 
 明治45(1912)年5月3日、二度目の明治天皇の四街道行幸が実現しました。その行事予定はほぼ第1回の行幸と変わりませんが、町の様子も出席者もひときわ豪勢でした。軍事参議官陸軍大将伏見宮貞愛(さだなる)親王、近衛師団長閑院宮戴仁(ことひと)親王、近衛野砲兵聯隊附砲兵中尉北白川宮成久(なるひさ)王のほか、山縣有朋、大山巌、乃木希典、秋山好古、堀田正倫などがお迎えになりました。
 また、周辺市町村の16の尋常小学校、同高等小学校、女学校の生徒合わせて約2600人が千代田岡で左右に分かれて並んで歓迎の旗を振り、自治体その他関係団体や、大勢の地元・近村の住民たちが、御覧所までの道筋に立ち並び奉迎しました。
 
【明治天皇崩御】
 野戦砲兵射撃学校への行幸から二か月ほど経った同年7月30日、持病の糖尿病性腎症による尿毒症を発現し、明治天皇が崩御されました。四街道行幸ではさぞかし歩行も困難だったはずで、陸軍や陸軍野戦砲兵射撃学校の切なる願いに対し、無理を押してそれに応えようとされたのでしょう。
 9月13日、明治天皇の大喪の式典が執り行われました。大喪におけるフランス国代表者はジョルジュ・ルボンでした。ルボンは宮中で当時軍事参議官だった乃木希典と再会し、固い握手を交わしました。そして、ルボンは叙勲勲章を佩用して撮影した写真を乃木に贈る約束を交わしました。ところが、乃木はそれに応えることはなかったのです。その日、日露戦争で旅順攻囲戦を指揮し、四街道行幸にも陪従した乃木希典は殉死しました。 
 
【皇太子殿下の行啓】
 皇太子殿下もまた四街道を行啓されています。
 のちに大正天皇となられる明宮嘉仁(はるのみやよしひと)親王は、明治38(1905)年10月27日に陸軍野戦砲兵射撃学校に、また明治44(1911)年5月22日には陸軍野戦砲兵射撃学校と野砲兵第一八連隊を視察されています。
 大正7(1918)年5月26日には、のちの昭和天皇迪宮(みちのみや)裕仁(ひろひと)親王が、千葉町の鉄道連隊や歩兵学校などの施設を視察された後、鉄道連隊が敷設した軽便鉄道(軍用鉄道)に乗御され、四街道の千代田岡に設けられた終点駅で降車された。皇太子殿下は徒歩で移動され、ルボン山頂上で演習をご覧になった後、野戦砲兵射撃学校に行幸されました。帰途は四ツ街道停車場から総武鉄道を利用されました。
 
軍用軽便鉄道~演習線路下志津線】
 左に掲載した地図は、皇太子殿下の行啓の前年に作成された地図ですが、ここに示されている「演習線路下志津線」こそ、皇太子殿下が千葉から四街道迄乗車された軽便鉄道の路線で、現在の四街道市千代田岡が終点となっています。しかしその後、大正9年に野戦砲兵第17連隊営所が建設されたことから、千代田岡に向かう軽便鉄道の路線を遮ることになり、同11年9月には同連隊が転出して、その跡地に陸軍野戦重砲兵第四連隊が転入してきました。これにより千代田岡に向かう路線は廃線になり、さらに大正10年には線路上に当たる地域に陸軍航空学校下志津分校が創設されたことから、萩台から北に向かう路線部分は廃止されました。但し、その線路は今道路として残っています。県道66号線のバス停高野山あたりから四街道小学校を右に見て愛国学園前に至る道を、古老は「軽便道路」と呼んでいます。
 
 皇太子殿下裕仁親王は翌大正8年11月19日も四街道に行啓され、近衛師団の機動演習を視察されました。さらに、大正15(1926)年7月19日には三度目の四街道を行啓され、陸軍下志津飛行学校修業式に行啓されています。
 天皇の四街道行幸と皇太子殿下の行啓については「ルボン山と町打場の物語」に詳しく解説しています。 
 
 
「四つ角」から「四街道」へ
 

九十九里から江戸に向かう旅人の街道】

 「四街道」という地名の起源は、現在の四街道市の中心部にある「四つ角」であることは多くの市民が知っています。この「四つ角」は天保11年2月に作成された町打場(砲術稽古場)の地図にもあらわされていますが、江戸時代には周辺の村々から遠く離れた村はずれの原野の縁(へり)にありました。

 その昔、九十九里沿岸の下総国海上(うなかみ)郡や匝瑳(そうさ)郡、上総国の武射郡や山辺郡の旅人たちが江戸に向かう時、あるいは、海産物などを江戸に運ぶ時に、彼らがたどる道はいくつかありました。八街、岩富を経て「四つ角」を通過する道もそのひとつでした。旅人や荷主の出発場所によって異なりますが、その日もしくは2日目の宿泊地は馬渡村(現在の佐倉市)となります。少し頑張って、旅籠のある山梨村(現在の四街道市)を宿泊地とした者もいましたが、そのあと鹿渡村(前同)を通過し、「四つ角」を経て狐狸の棲む六方野の原野を抜け、次の宿泊地の船橋や行徳を目指しました。
 

 天保12年2月の「四つ角」(千葉県立中央図書館蔵「佐倉藩砲術練習場絵図面」)
すでにこのころには「四つ角」が千葉や佐倉、江戸や九十九里をつないでいたことが分かる
 
 
「四つ角」周辺の街道(大矢敏夫作図)
 
 
 
 
「四つ角」右方向四街道駅(大矢敏夫撮影)
 角には明治14年12月吉日建立の石塔と二代目榎が今も往時を物語っています。
 
四街道駅前の福島製菓店は創業120年以上の老舗です。

佐倉藩の藩主や家臣が使用する街道】

 佐倉藩主が参勤で江戸に向かう時、あるいは藩の役人が江戸に向かう時の通常のルートは、臼井、大和田、船橋を経て、小岩、新宿(にいじゅく)から江戸に入る、いわゆる「佐倉道」でしたが、より短時間で負担を少くするために、佐倉藩では海上舟運を利用しました。領地のほとんどが下総の内陸である佐倉藩にも僅かながら海への出口がありました。それが千葉郡登戸村寒川村でした。登戸村は藩主や家臣の江戸出府のための湊として利用され、寒川村には年貢米を貯蔵し、江戸屋敷に回送するための米蔵がありました。

 佐倉藩の南部の領村は、この寒川御蔵に年貢を上納していましたが、その運送ルートは二つありました。ひとつの道は、佐倉から神門(ごうど)、馬渡(まわたし)を経由する現在の国道51号線とほぼ一致するルートで、もうひとつは、佐倉からこの「四つ角」を経て六方野を横切り千葉町に向かう道でした。

 四街道市域では、南波佐間村や吉岡村などの年貢米運搬ルートは現在の51号線に沿う街道で、亀崎、物井、栗山、和良比などの村々は、「四つ角」を通過するルートを使用していました。

 佐倉城から登戸や寒川村に向かう佐倉藩の藩主や家臣も、また江戸に向かう九十九里の人々も、この「四つ角」を経由して狐狸の棲む六方野の原野を抜けることになりますが、その前に人々は四つ角で小休止しました。そのようなことから、四つ角には僅かながらお休み処の茶屋を営む人々が住み着くようになり、やがて小さな集落が形成されました。

 「四つ角」は。九十九里への街道、江戸に向かう街道、佐倉城に向かう街道、千葉町に向かう街道、この四つの街道が交わるところという意味でしょう。

「四ツ街道」の誕生】

 さて、明治5年にフランス陸軍軍事顧問団のルボンらが、明治陸軍の創設に当たって、佐倉藩の町打場を大砲演習場に改造しました。さらに演習場が拡張されるに至る過程で、下志津村、畔田村、内黒田村など周辺村々は演習場に土地を奪われ、田畑に弾丸が降り注ぐことになりました。演習場となった附近の村人は、止むなく移転を強いられ、たとえば、下志津村の地主のなかには、本村から離れた南方への移転を強いられ、下志津新田を起立しました。六方野の小深台辺りに移り住んでいた住民も南下を余儀なくされて小深新田が起立しました。さらに下志津村の東隣の畔田村でも同様の問題が発生し、彼らもまた南下して、下志津新田の東隣に畔田新田を起立しました。

 一方、明治13年に現在の「四つ角」のガソリンスタンドを経営されている福島家のご先祖が「四つ角」に郵便局の開設を願い、千葉県はこれを認め畔田村郵便局を設置しました。ところが、この地は本村から遠く離れているので、名称を「四ツ街道郵便局」に変更するよう再度申請したところ、1年後には「畔田村内四ッ街道郵便局」に改称されました。

 それまでも「四ツ街道」という名称が使用されたかもしれませんが、それを検証することはできません。従いまして、公式に「四ツ街道」の名称が使用されたのはこれがはじめてであり、この時に「四ツ街道」が誕生したことになったと言えます。

 これを機に「四ッ街道」の名が公然と使用されるようになり、明治27年12月9日に総武鉄道の「四ッ街道停車場」が開業すると、最早「四ッ街道」は全国ブランドとなったのでした。

 明治14年12月に建立された石碑の四面には「北成田山道、西船橋東京道、東登宇かね馬渡道、南千葉町道」と刻まれて、いまも「四つ角」にたたずんでいます。

 因みに、福島家の本家は「四つ角」のガソリンスタンドを経営されていましたが、令和7年12月に閉店されました。分家の福島家は四街道駅前に「福島製菓店」を経営されており、四街道の歴史を刻みながら、老舗として市民に親しまれています。

 

四街道市の誕生】

 明治22年4月1日、市制町村制が施行されたことによって、全国的に町村の大合併が実施されました。これにより、下志津原や六方野周辺に江戸時代から存在していた多くの村が廃止され、合併して、千代田村旭村志津村犢橋村が生まれました。

 千代田村は、内黒田、物井、亀崎、栗山、長岡、下志津新田、畔田、生谷、羽鳥、飯重、吉見が合併して生まれた村で、畔田村字四ッ街道も陸軍野戦砲兵射撃学校も、この千代田村の村域に入りました。

 また、鹿渡、和良比、小名木、山梨、成山、中台、馬渡、上野、南波佐間、和田、中野、吉岡が合併して、旭村が誕生しました。

 昭和15年12月、千代田村は町制を採用して千代田町となりました。

 そして、昭和30(1955)年3月10日、千代田町のうちの内黒田、物井、亀崎、栗山、長岡、下志津新田と、旭村のうちの鹿渡、和良比、山梨、和田、中野、成山、中台、上野、南波佐間、小名木、吉岡が合併して四街道町が誕生しました。そして、千代田町の畔田、生谷、羽鳥、飯重、吉見が、さらに旭村の馬渡が、佐倉町に吸収されました。四街道という名は、郵便局名から始まったが、行政区にその名が刻まれるのに74年を要したわけです。

 昭和56年4月1日、四街道町は市制施行により四街道市となりました。

昭和3年1月に松井天山が描いた「千葉県四街道駅鳥瞰図」の一部、四街道駅北口附近に旅館など音焦点が並んでいる。
 
 
 

「西洋との遭遇 幕末・維新アナザーヒストリー」より

 
 
 
 フランス陸軍砲兵大尉ジョルジュ・ルボンが下志津原に大砲演習場を開設し、その時、後に四街道の貴重な史跡となった「ルボン山」を築造したことについて、私は、なぜフランス人がはるばる辺境のこの地を訪れることになったのか、なぜアメリカ人やイギリス人ではなく、フランス人だったのか、西洋との外交はどのようにして始まったのか、などなど多くの疑問を解き明かしたい、と思うようになりました。
 そして、徳川幕府が開国をフランスのナポレオン政府に頼り、幕府を倒した明治新政府もまた陸軍の創設をフランス政府に頼ることになったことに気づき、強い感動を覚えました。というのも、幕末・維新の歴史に興味を持っておられる方はご承知のとおり、徳川幕府が薩長などの攘夷派や外国人を嫌悪する人々と戦うことになりますが、その裏では、開国に向けた幕臣たちの涙なくしては語れない苦労の歴史があったことを知るに至ったからです。
 同時に、幕末から明治にかけて、極めて好意的に接し、西洋事情を教えた外国人がいたことを知りました。そのようなあまり知られていない幕末・維新について、一次資料の古文書や旅行日記、古典籍、研究者による論文などの調査をもとに執筆し、書籍を出版するに至りました。浅学菲才の私ではありますが、幕末・維新の歴史を異なる視点で見なければならないのではないかと感じたため、表題を「幕末・維新アナザーヒストリー」とする、上下2巻の‶大作(?)”になった次第です。
 
 
 
開国を進めた堀田正睦とタウンゼント・ハリス
 
堀田正睦(千葉県内務部著作、昭文堂発行「堀田正睦」掲載画)
 
堀田正睦とハリスの会談
(ChatGPT生成画像)
【補足】
 徳川幕府で外交官を勤めた田辺太一は幕府の外交に関する質問に、次のように語っている。
 極端に評しますれば外交と申ものは御座りませぬ。ただ尊王攘夷のことを計って出来そこなったと申に外なりません。其れならば全く開国論を採るものは無いかと云えば、唯一人御座いました。即ち堀田備中守で、此人の開国論者たりしことは、京都へ外国条約の為に勅許を願ひに参りました時の書類其他にても分ります。まったく天下の形勢より鎖国の不都合なることを悟りて看破しましたのです(戸川安宅編「旧幕府」合本五、第三巻第五号、原書房)。
【佐倉藩主堀田正睦が老中に就任してハリスと外交交渉
 安政1年3月3日(1854年3月31日)、幕府は横浜においてアメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー提督との間で「日米和親条約」を締結し、下田・箱館を開港しましたが、ペリーが要求した通商条約については拒否しました。日米和親条約は、あくまでもアメリカ船とくに捕鯨船の日本近海通航時に日本の港への寄港を認め、いわば鎖港を解いただけであり、薪水(燃料と水と食料)の補給に協力するという程度のものでした。しかし、安政3年にアメリカ合衆国のタウンゼント・ハリスが駐日総領事として来日し、通商条約の締結を申し入れてきたときから状況は一変しました。まさに日本の開国への階段を上り始めるきっかけになりました。
 この時、日本側で対峙したのが、佐倉藩主で老中筆頭外国御用取締掛(今の外務大臣に相当)の堀田正睦(まさよし)でした。彼は佐倉藩において善政を布いていましたが、その実績を評価され、前任の筆頭老中阿部正弘の後押しがあって老中に就任することになったと思われます。また彼は、下志津原大砲演習場を開設し、西洋砲術をいち早く取り入れ、さらに西洋医学を身に着けた佐藤泰然を招いて順天堂を立ち上げ、西の長崎、東の佐倉と評されました。このように、堀田正睦は当時としては最も開明派の老中で、開国を積極的に容認していたため、老公水戸斉昭から“蘭癖(らんぺき)”と揶揄されていました。
 
 堀田正睦は多くの反対を説き伏せて、ハリスが要求する江戸城に登城し、将軍に謁見することを許し、江戸滞在中蕃書調所をハリスの宿所とさせました。そして、ハリスを同所において数度にわたって通商条約締結交渉を続けるとともに、堀田はハリスを上屋敷に招き、親しく接し、交流しました。ハリスは堀田に対して、西洋が資本主義により産業の革新が進んでいること、とくに蒸気機関により近代工業が目覚ましく発展していることなど、西洋の事情を詳しく説明するとともに、日本も早急に近代化を図るべきであり、日本人にはそれが可能である、と強く主張しました。ハリスは正睦に開国の必要性を熱く語り、正睦も通商条約締結に向けて意欲的に取り組んだのでした。
 条約締結については幕閣の中にも賛否両論あり、大名の中にも条約締結に強く反対する者もあったため、堀田はハリスとの交渉経過についていちいち報告するとともに、幕閣や諸大名に意見書を出させて、納得が得られるよう努力を重ねました。
 評定所一座に示した堀田正睦の開国方針には次のように記載されています。

 今は万国において、ちょうど漢の春秋列国の時代と似ている、それぞれ国家の建設の事情が異なり、宗教も異なる国々であって、そのような国々が同盟和親を結び、貿易を開き、お互いに艱難を救い合う時代であり、昔のようにその国内だけで乱れあるいは治まるという時代ではない。「和親」もなく「戦争」もなく、外交を断って独立し、「昇平」を楽しめるような国は一国もない。もし仮にその「一国」になろうとして和親同盟を拒めば、極東の片隅で世界万邦を敵に回し、国民を塗炭の苦しみに陥れることになるであろう。
 彼より公使を送ってくれば、こちらからも公使を送り、彼より軍艦や商船を送ってくれば、こちらからも軍艦や商船を送って、互角の勢力を張れば広く万国に出かけ、貿易を通してその国の良いところを採り、不足があればこれを補い、国力を養い、武力を許可し、世界に害をなすような国には天心に代って天誅を加え、善良弧弱の国にはいつくしみを与え、世界万邦の大盟主となり、我が国が政教を奉じ、我が国の裁判を受けさせる、そのような日本国であって欲しい、天孫降臨以来連綿と栄えてきた皇国である限り、必ず苦難は乗り越えられる、今まさに乾坤一変の時期であり、祖宗の法を改めることこそ、祖宗の遺志に適うことと考える。 


 何とか、反対意見を抑え、大方の納得を得ることができたため、堀田正睦は天皇の勅許を得ることによって、条約締結を確実なものにできるものと確信して、上京します。ところが、事態はそれほど甘くありませんでした。孝明天皇はもともと外国人を嫌い、朝廷内は攘夷派公家が大勢を占めていたのでした。そして、ついに勅許が下ることはありませんでした。
 堀田は失意のうちに江戸に戻りますが、幕府の状況は一変していました。井伊直弼が大老に就任するとともに、間もなく、井伊大老は勅許を得ることなく、安政5年6月19日(1858年7月29日)、「日米修好通商条約」に調印させたのでした。後の世では、開国の功労者は井伊大老であると賛美されますが、実際には、堀田がハリスと共に積み重ねてきた通商交渉があったからこそ、実現したものであり、井伊大老はそれを追認したものでした。
 なお、6月19日に日米修好通商条約締結された後、翌7月10日には日蘭、同11日には日露、18日には日英、9月3日には日仏の間で、それぞれアメリカと修好通商条約を締結しました。そして、5か国との間の条約により、翌安政6年6月2日(1859年7月1日)に神奈川港(のち名称を横浜に変更)・箱館港・長崎港が開港しました。
 しかし、「違勅調印」による条約締結に抵抗する攘夷派勢力との間で致命的な亀裂が生じ、井伊大老は粛清を繰り返し、いわゆる“安政の大獄”が始まるのです。
 
 詳細は、拙著「西洋との遭遇 幕末・維新アナザーヒストリー」上巻をお読みください。
 
 
 
遣米使節と咸臨丸
 
 ハリスは幕府に対して、日米修好通商条約の批准書交換ワシントンにおいて行うことを提言し、幕府もこれを受け入れました。ハリスの狙いは、できるだけ多くの日本人にアメリカの姿を見せて、近代的な西洋国家を体験させることでした。
 幕府は、正使として外国奉行兼神奈川奉行新見(しんみ)豊前守正興(まさおき)を、副使として勘定奉行兼箱館奉行兼外国奉行兼神奈川奉行村垣淡路守範正(のりまさ)を、目付として小栗豊後守忠順(ただまさ)を、勘定組頭として森田岡太郎清行、外国奉行支配組頭成瀬善四郎正典を、それぞれ任命しました。一行は総勢77人の大使節団となりました。
 そしてハリスは、使節を乗せる艦船として、ペリー艦隊の旗艦であったポーハタン号を用意しました。
 この時、幕府はポーハタン号の護衛として咸臨丸を別艦に加え、艦長に木村摂津守喜毅(よしたけ)を、指揮官に勝海舟を任命しました。そして、乗組員としてオランダで造船などの学問を学び、専門的知識を得て実践してきた長崎海軍伝習所の卒業生を中心に選任しました。咸臨丸乗船者は総勢90余人(資料により若干異なる)でした。なお、福沢諭吉は伝手を頼り、木村の従者として随行しました。
 艦長の木村には緊急時におけるポーハタン号の護衛という使命がありましたが、いまひとつ、わが国がこれまで経験していない日本人による外国への航海の端緒とする、という責任もありました。ところが、結果的にはいずれも果たせませんでした。
鈴藤勇次郎作成の太平洋を横断した咸臨丸の図
(田中一貞編「万延元年遣米使節図録」掲載絵図、国立国会図書館デジタルコレクション)
 

ジョン・マーサ・ブルック(「万延元年遣米使節史料集成第五巻」風間書房発行掲載写真)

中浜万次郎(国立国会図書館電子展示会「近代日本人の肖像」掲載写真)
【咸臨丸の太平洋横断】
 咸臨丸ポーハタン号より3日早く、万延1年1月19日(1860年2月10日)に90余人を乗せて浦賀を出港し、以後ポーハタン号を護衛することもなく、難航の末、2月25日(3月17日)サンフランシスコに到着して大歓迎を受けました。しかし、航海中に二人が死亡し、8人がサンフランシスコの病院で治療を受けることになりました。
 咸臨丸は同地のドックで破損したメインマストや帆桁などの修理を受けました。その間にポーハタン号もサンフランシスコに到着し、一時合流しましたが、ポーハタン号はひと足早くパナマに向かいます。修理を終えた咸臨丸は閏3月18日(5月8日)にサンフランシスコを出帆し、再び太平洋を渡り、5月5日(6月23日)浦賀に帰港しました。
 
 この航海においては、当初の“日本人による初航海”は必ずしも達成できたとは言えません。実は、木村館長は当初から長崎海軍伝習所における学問と実践だけでは無理だと悟り、アメリカ人の測量調査船の艦長ジョン・マーサ・ブルック以下合計11人を乗艦させ、指導を受けることにしていました。案の定、浦賀を出港し、房総沖に差かったところで荒天に遭い、わずかを残して、日本人は船酔いで船室にこもりきりでした。以後、サンフランシスコに着港するまで、操船はブルックに任せきりで、荒天をものともせずに活躍したのはアメリカ人ばかりでした。同船した福沢諭吉は後に「咸臨丸の太平洋横断において、ブルックやアメリカ人水夫などには一切助力を受けることはなかった」と誇らしげに語っていますが、これは事実ではありません。
 何とかブルックの指導を受けて活躍した日本人はほんのわずかでした。16歳の斎藤留蔵の日記には「日本人で運用に関われたのは、通訳の中浜万次郎、教授の小野友五郎、同じく浜口与右衛門だけで、その他の者は食事さえまともに取れなかった」と記しています。さすがに捕鯨船で世界を股にかけたジョン万次郎の面目躍如というところだったのでしょう。
 指揮官である勝海舟に至っては、船酔いと風邪のために甲板に出ることもなく、サンフランシスコの港が見え始めてはじめて体調を取り戻し、到着後は何もなかったかのように“指揮官”として張り切っていました。
 同船していた福沢諭吉は、勝は航海中は病人同様で自分の部屋の外に出ることはできなかった、と書き残しています。その福沢諭吉はサンフランシスコでさまざまな書籍の収集に明け暮れていたようです。
 なお、航海中に病気になった者のうち2人が現地で死亡したが、そのほかの8人は治療のため、看護人2人とともに、現地に残留を余儀なくされました。咸臨丸が帰港した後、残留病人8人のうち病院で死亡した1人を除く7人が看護人と共に帰国しています。
 また、咸臨丸乗組員に係るすべての費用(咸臨丸修理費用や入院費を含めて)をアメリカ政府が負担しています。
 
 一方、使節を乗せたポーハタン号は、横浜から太平洋を渡って、サンフランシスコを訪問し、南下してパナマに至り、ここでポーハタン号と別れました。そして、感動の初体験の蒸気機関車でカリブ海岸に渡り、アスピンウォールという港からアメリカ軍艦ローノック号で使節の目的地であるワシントンを訪問しました。ワシントンでは大統領との面会を果たし、批准を終えて、蒸気機関車でボルチモア、フィラデルフィアを経由して、ニューヨークでも大歓迎を受けました。その後、アメリカ軍艦ナイアガラ号で大西洋のアフリカ沿岸を南下し、喜望峰を廻って、インド洋を航行し、東南アジアや中国を経由して、9月27日(11月9日)に横浜に到着しました。日本人としてはじめての世界一周大旅行でした。
 そして、咸臨丸の乗組員と同様に、どこに行っても大歓迎を受け、歓待されて、近代産業を体験しています。
 
 詳細は拙著「西洋との遭遇 幕末・維新アナザーヒストリー」上巻をお読みください。
 
 
 
 
目的:日米修好通商条約批准書交換
 
 
遣米使節三使、左:村垣範正、中央:新見正興、右:小栗忠順(国立国会図書館デジタルコレクション「万延元年遣米使節図録」より)
遣米使節が乗船したポーハタン号
(田中一貞編「万延元年遣米使節図録」掲載絵図、国立国会図書館デジタルコレクション)
【遣米使節のアメリカ旅行】
 ポーハタン号は、咸臨丸がすでにサンフランシスコで大歓迎を受け、ドックで修理を受けている間に、彼らと一時合流しました。サンフランシスコは遣米使節の公式訪問地ではないものの、アメリカ政府との批准書交換式を控えた公式使節であることから、サンフランシスコ市長の公式歓迎会を受け、金貨製造所などを視察するなど、咸臨丸の乗組員とは少々扱いが異なっていました。しかし、あくまでも一時的な寄港であったため、僅か10日間滞在した後、パナマに向けて出港しました。
 この当時、サンフランシスコはゴールドラッシュの時期ではありましたが、ワシントン間の鉄道はまだ開通していなかったため、駅馬車でロッキー山脈を越え、大平原を横断しなければ、ワシントンには行けなかったのです。従って、パナマに上陸し、蒸気機関車に乗り、最短距離でメキシコ湾側に渡り、海路をたどるしかありませんでした。蒸気機関車に乗った使節一行の感動ぶりは、副使村書きの日記を含めて、遣米使節に同行した人々の日記から実に面白く読むことができます。
 一行はその後、ワシントンで条約批准書交換を果たしただけではなく、各地で大歓迎を受けながら、ボルチモア、フィラフィルディアを経由して、ニューヨークに向かいます。
 
 詳細は「西洋との遭遇 幕末・維新アナザーヒストリー上巻」で解説しています。

 ネイヴィヤードでの記念写真(アメリカ合衆国議会図書館ウエブサイトPPOC掲載写真)、前列左から、塚原昌義(外国奉行支配両番格調役)、成瀬正典(外国奉行頭支配組頭)、村垣範正(副使)、新見正興(正使)、小栗忠順(目付)、森田清行(勘定方組頭)
 
ネイヴィヤードからホテルに向かう使節、馬車の上には条約箱が積まれている(田中一貞編「万延元年遣米使節図録」掲載絵図、国立国会図書館デジタルコレクション)
 

ブキャナン大統領に公式謁見(前掲資料)
 
ニメトロポリタン・ホテル前で大歓迎を受ける遣米使節
(アメリカ合衆国議会図書館「PRINTS & PHOTOGRAPHS ONLINE CATALOG」掲載写真)
 
ニューヨーク市主催使節歓迎舞踏会(田中一貞編「万延元年遣米使節図録」掲載絵図、国立国会図書館デジタルコレクション)
中央辺りで女性に囲まれているトミーが見えます。
 
トミーを取り囲む娘たち(前掲資料)
【条約批准と遣米使節の視察の概要】
 ワシントンに到着した77人の使節一行は、さっそくネイヴィヤード(総海軍所)を訪問し、造船所を視察しました。この時の経験から、目付の小栗忠順は資本主義と近代技術の素晴らしさに感動して、後に勘定奉行となり、横須賀製鉄所を建設することになります。
 その後、万延1年閏3月27日(1860年5月17日)、アメリカ合衆国のジェームズ・ブキャナン大統領に謁見しました。
 翌28日、カス国務長官の官邸に招かれて歓迎を受けて、数百人の男女の来賓たちが集まる大宴会に出席しました。サンフランシスコ市長の大宴会と同様に、アメリカ滞在中は、シャンパン、ワイン、ステーキが当たり前のように用意され、西洋式に食事をとりました。食卓には大統領の親族や官僚たちも同席するなど、将軍と席を並べることなど考えられないような西洋式の宴席の場も何度か体験しました。そして、もろ肌を隠すことなく美しく着飾った女性を、座る時も立つときも歩く時も、男性がレディファーストで対応する様子に驚くとともに、行くところ行くところで舞踏会が開かれ、男女が抱き合ってくるくると舞い踊るという場面に、視線を向けるところに戸惑うばかりの日々が続きました。
 
 4月2日(1860年5月22日)、カス国務長官と面会し、使節の使命である条約批准書を交換しました。
 ワシントンでは、大統領の配慮により、国会議事堂を訪れました。時まさに国会開会中で、国民から選ばれた大統領と、士農工商の区別なく選ばれた議員が自由闊達に議論する様子に、使節たちは驚かされ、自由平等の近代社会の姿に感動しました。
 どこに行ってもアメリカ人が日本人を大歓迎してくれるたびに、片や、攘夷の旋風が吹き荒れ、外国人殺傷事件が多発している日本と比べ、彼我の違いをまざまざと見せつけられた思いだったことでしょう。
 
 ワシントンで公式行事を終え、一行は蒸気機関車でニューヨークに向かいました。ボルチモアを訪問した後、大きな河に差し掛かった時、蒸気機関車をそのままフェリーボートに乗せられ、河を渡ったところで再び汽車が走り出すという驚くべき体験を思案した。しかし日本人の中には、居眠りしていて、全くそれに気が付かなかった者もいました。
 そしてフィラデルフィアに立ち寄り、金貨製造所を訪れました。ここで目付の小栗忠順は重要な任務を果たしました。それは、これまで日米の交換比率が確定していなかったため、彼は持参したすべての日本貨幣の品質について、アメリカ政府に検証させることでした。これにより、交換比率は「1両3ドル60セント」と確定したのでした。
 ちょうどこのころの新聞に日本で大事件が起こっていることを知らせるニュースが掲載されていましたが、詳細が分からず、副使の村垣は何かが起こっていることを予感しました。後になって、それが万延1年3月3日に発生した井伊大老の暗殺事件であることが判明します。
 
 4月28日(1860年6月17日)、一行はニューヨークに到着しました。現地では、楽隊を先頭に、数千人の騎馬隊と歩兵隊に守られ、日の丸の国旗を立てた四頭立ての四輪馬車は、使節と美麗に飾り立てた条約箱を乗せて、メトロポリタン・ホテルに向かいました。日本人部屋はすべて5階に用意されました。同ホテルには二つの庭園と三つの劇場があり、大部屋が500室、小室が数百あるという。おそらく世界最大のホテルだと聞かされました。
 5月7日、メトロポリタン・ホテルを会場にして、ニューヨーク市主催の日本使節歓迎大舞踏会が開催されました。翌日の「The NewYork Herald News」に遣米使節に関する記事が二面フルページで掲載されました。一面では「ALL ABOUT JAPANESE」として、日本の地勢、気候、人口、国内情勢、海外政策、天皇、農業や鉱業などを紹介され、もう一面は「THE JAPANESE IN NEW YORK」と題して、今回の大舞踏会について、主催者と切符の発行、会場と舞踏会の様子、使節一行の様子などを取り上げています。
 舞踏会の招待券は訳7000枚ほど売れており、以下に大規模な舞踏会であったかが分かります。そして、ただ踊るだけではなく、日本人が見たこともない楽器で奏でられる、これまで聞いたこともない音楽が演奏されました。そして、この日の目玉はダンサーでした。小さな靴に包まれた繊細な足、ほっそりした腰、ふくよかな胸、そして亜麻色やブロンドや赤毛や黒などおびただしい色の髪の毛が会場を魅惑的な雰囲気にしました。
 歓迎会の会場に日本人一行が登場すると、バンドが当時欧米で大好評を博していた美しく感動的な「キャスリーン・マヴァルニーン」を静かに演奏し始めました。観客は自然に立ち上がり、「ジャパニーズ、ジャパニーズ」の大歓声が上がった。会場のすべての人々はつま先立ちでユニークな外交団を見つめた、とニューヨーク・ヘラルド・ニュースが伝えています。
 午後10時から始まった舞踏会は翌日の明け方まで続きました。それにしても、日本人たちの出る幕は全くなく、ただひたすら眺めるだけでした。
 
【トミーとトミーポルカ】
 実は、アメリカに到着して以来、一人の少年がアメリカ人とくに娘たちを魅了した少年がいました。それは、17歳のトミーこと立石斧次郎でした。斧次郎はポーハタン号に乗っているころから、アメリカ人の士官室に出入りして愛嬌を振りまいていました。幼名が為次郎で、みんなから「タメ」と呼ばれていたことから、アメリカ人は彼を「Tommy(トミー)」と呼んだのでした。彼はアメリカに来て以来、美しい女性たちに夢中になってしまい、何とアメリカ女性もまた、「トミー」に夢中になったのでした。アメリカ滞在中、彼はいつも女性に取り囲まれていたのでした。
 彼はワシントンにいるとき、トリビューン紙の記者の取材に「この国で適当な妻を見つけて、その人と永久に和やかに暮らしたいので、日本に帰りたいなどとは決して思わない」と打ち明けています。そのようなことも、アメリカ娘に興味を抱かせたのかもしれません。
 ボルチモアでもフィラデルフィアでも、そしてこのニューヨークにおいても大人気だった。
 「The NewYork Herald News」が掲載したニューヨーク市の大舞踏会の記事によれば、トミーを「the lion of the Embassy」(花形)としており、「ジャパニーズ、ジャパニーズ」の大歓声の中でも、トミーは特別の存在でした。しかし、この日は少し控えめだったが、その理由は、監督者のこわい「Ogore Bungo」(小栗豊後守のこと)を意識したからであろう、と記載しています。実は、フィラデルフィアに到着した一行を歓迎する人々が馬車を取り囲んだ時、一人の女性が彼に手を伸ばしてきたとき、彼は彼女を引き付けてキスをしてしまったのです。あまりのトミーブームに監督役の小栗は彼に注意を促したのでしょう。
 しかし、女性たちはトミーに夢中でした。同紙は「多くの乙女たちの胸がときめいたことは疑いないことだった」と報じています。
 トミーブームはそれだけに止まりませんでした。
 施設がニューヨークを発った後、トミーの人気にあやかって作曲された「トミーポルカ」という歌が大流行しました。そして何と、同年8月31日付「Burlington Free Press」紙の「NEW MUSIC」欄に、グローブ作曲「Tommy Polka」が、同じくグローブの「Lincoln Quickstep」、B・リチャーズの「Home Sweet Home」などと並んで、トップテンにランクインしたのです。
 
 在ニューヨーク日本国総領事館のウエブサイト「Japan-NYC 1860-2010: A Heritage of Friendship‐万延元年遣米使節団のニューヨーク訪問一五〇周年記念」のページで「Tommy Polka」が紹介されています。ニューヨーク・シンフォニック・アンサンブルによる「Tommy Polka」の軽やかで素晴らしい演奏がユーチューブで視聴できます(URLはTommy Polka - Orchestra Version - / New York Symphonic Ensemble)。
 
遣米使節については「西洋との遭遇 幕末・維新アナザーヒストリー上巻」で詳しく説明しています。
 
 
 
目的:二都二港開市開港期限延期談判
 
ラザフォード・オールコック
(オールコック著・山口光朔訳、岩波書店発行「大君の都   上巻」掲載写真)
オールコックは、これまで駐日外国公使らを主導していたハリスが、母国の南北戦争によって交渉力が低下したあと、イギリスのオールコック公使が駐日外交団を主導するようになり、幕府との仲介役を果たすことになる。
【三港開港と外国人殺傷事件】
 安政五か国条約、すなわち日米、日蘭、日露、日英、日仏と修好通商条約を締結し、各国の公使らが着任した。イギリスの全権公使ラザフォード・オールコックは、当初はハリスに遠慮していたようですが、次第に各国代表の中で影響力を発揮します。
安政6年6月2日(1859年7月1日)に神奈川港(のち名称を横浜に変更)・箱館港・長崎港が開港しました。 三港開港により各国の公使や領事をはじめとする各国役人や商人など、多くの外国人が来日し、攘夷派浪人などによる外国人に対する殺傷事件が頻出しました。
 横浜開港翌月の6年7月27日、ロシア海軍の少尉ら四名が暴徒に襲われ、2名が殺害されたのを皮切りに、フランス総領事従者、オランダ人船長などが殺害され、万延1年2月までの半年間に横浜開港地では7人の外国人が殺害されるという事態に至りました。
 翌万延1年1月にはフランス公使館の済海寺が放火され、9月17日にはフランス領事館を四人の武士が襲撃し、公使館の旗番をしていたイタリア人ナタールが負傷しました。しかし、 幕府は犯人逮捕ができず、各国はこれを厳しく指弾し、幕府との間に緊張が続きました。
 幕府と各国公使らとの間を分断した最大の事件は、同年12月4日(1861年1月14日)に発生したアメリカ公使タウンゼント・ハリスの通訳を勤めていたヘンリー・ヒュースケンが、薩摩藩士の襲撃を受け、翌日死亡するという事件でした。この事件では、彼の主人だったハリスは逆に音便におさめようとしましたが、イギリスやフランスその他の国は江戸市中の公使館を撤退し、横浜に移転するという事態に陥りました。
 さらに、文久1年5月28日(1861年7月5日)、水戸浪士14人がイギリス公使館の東禅寺に乱入し、双方に死傷者が出た(第一次東禅寺事件)。オールコックは危うく難を逃れたが、着任したばかりの公使館書記官ローレンス・オリファントと従僕2名が重傷を、1名が軽傷するという事態になり、さすがにフランスとイギリスとは外交問題に発展しました。
 
 二都二港開市開港期限延期のためにヨーロッパを訪れた経緯や外交交渉と、その旅程やエピソードの全貌については、拙著「西洋との遭遇 幕末・維新アナザーヒストリー上巻」で詳しく説明しています。
 
二都二港開市開港延期談判使節
左から副使松平康直、正使竹内保徳、目付京極高朗、組頭柴田剛中(ナダール撮影、GALLICA/フランス国立図書館デジタル図書館「Ambassadeurs Japonais - France」掲載写真)
 
1962年第2回ロンドン万国博覧会会場を描いた絵図
(国立国会図書館電子展示会「博覧会ー近代技術の展示場」掲載図)
 
1862年第2回ロンドン万国博覧会開会式に各国代表と並んで入場する日本使節(1862年5月10日「The Illustrated London News」紙掲載絵図の一部)
 
1862年ロンドン万国博覧会を観る日本使節
(1862年5月10日「The Illustrated London News」紙掲載絵図)
 
1862年ロンドン万国博覧会 日本ブース
(1862年5月24日「The Illustrated London News」紙掲載絵図)
【二都二港開市開港期限延期談判使節の派遣】
 万延1年3月3日(1860年3月24日)に井伊大老が暗殺されたあと、幕府は朝廷との間のもつれた関係の修復と、幕府の権威の回復に勤めました。いわゆる公武一和公武合体)すなわち天皇と将軍、朝廷と幕府の連合による政権構想の樹立でした。これを推し進めたのは老中安藤対馬守信正でした。
 文久2年2月11日(1862年3月11日)、公武一和の象徴として第14代徳川将軍家茂(いえもち)と皇女和宮の結婚式が執り行われましたが、その条件として、朝廷は幕府に攘夷を約束させました。そして、安政5か国条約は「違勅調印」すなわち天皇の勅許を受けずに調印した違法な調印であるとして、すでに開港している3港を除き、安政6年12月9日(1860年1月1日)予定の新潟開港、文久1年12月2日(1862年1月1日)の江戸開市、文久2年11月12日(1863年1月1日)の大坂開市と兵庫開港、をすべて延期せよと主張しました。すなわち、二都(江戸・大坂)二港(新潟・兵庫)の開市・開港の期限延期です。
 
 苦渋の選択を迫られた幕府は、朝廷に従って、止むを得ず各国の公使らにこれらの延期を伝えました。
 しかし、安政5年の条約を締結した各国にとって、二都二港開市開港期限延期という暴挙は到底受諾できない言語道断な要請でした。ところが、当初は条約違反だと主張していたイギリス公使ラザフォード・オールコックは意外にも重傷を負ったオリファントなどへの賠償金支払いを条件としてこれを容認するとともに、二都・二港開市・開港の期限延期については、本国政府に使節を送って直接要請するよう助言したのです。これには、オールコックと安藤対馬守との信頼関係も作用していたものと思われます。
 そして、同じく強く抵抗していたフランスのデュシェスヌ・ド・ベルクール総領事を納得させ、他の国も説得して、使節のヨーロッパ派遣を実現させたのでした。
 ついでながら、この問題が発生した万延1年7月にオールコック公使が幕府の許可を得て富士登山を敢行したことはよく知られています。
 
 オールコックにはもう一つの狙いがありました。日本人を世界の表舞台に登場させることでした。まずは、1862年5月1日(文久2年4月3日)のロンドン万国博覧会の開会式に使節を出席させることでした。オールコックはこの日までに使節をロンドンに到着させるため、使節の日程と旅程に細心の注意を払いました。
 また、日本人のヨーロッパの近代国家を訪問させ、産業発展の様子を見せたいと考えたのでした。
 幕府は、全面的にオールコック公使の助言に従い、オールコック公使は、往路にイギリス戦艦オージン号を用意し、イギリス訪問に係る一切の費用を負担することにしました。他国もこれに倣い、滞在費用はすべて負担してくれたのでした。そして、帰国時にはフランス戦艦に頼ることになりました。 
 開市開港期限延期談判使節として、正使は勘定奉行兼外国奉行の竹内下野守保徳で副使は外国奉行兼神奈川奉行の松平石見守康直(のち老中就任、松平周防守)、目付京極能登守高朗(たかあき)、外国奉行組頭として柴田貞太郎(剛中)が任命され、一行は総勢36人となりました。
 
【第1回遣欧使節の旅程】
 文久1年12月22日(1862年1月21日)、
          使節を乗せたイギリス戦艦オージン号が品川を出港
 文久2年1月21日(2月19日)、スエズ港に入港
          蒸気機関車でカイロに到着、ピラミッド視察
 3月5日(4月3日)、マルセーユに入港
 3月15日(4月13日)、ナポレオン三世に謁見
 3月17日、エドゥアール・トゥヴネル外務大臣およびグロ男爵と会談
 しかし開市開港延期の承諾は得られず、逆に安政5年の条約が順守されておらず、輸出が規制されている、とくに生糸の輸出規制への講義を受ける。数次の会談を行ったあと、結局時間切れでフランス政府の承諾が得られなかったため、帰途に再度訪問することで合意し、ロンドンに向かう。
 4月2日、ロンドンに到着
 4月3日(1862年5月1日)
          第2回ロンドン万国博覧会開会式出席
 開会式にはヴィクトリア女王が出席されるはずであったが、前年秋に夫のアルバート公が死去し、女王は深い悲しみに暮れて籠りきりであった。従って、使節もまた謁見は許されなかった。
 またオールコック公使は、二都二港開市開港期限延期の決着の仕方について、老中の安藤らとの交渉が長引き、パリ経由で5月3日にロンドン到着した。彼はパリでフランス政府と交渉し、決着の仕方について合意していた。
 5月9日(6月6日)、「ロンドン覚書」に調印、概要は以下のとおりです。
1、新潟・兵庫開港、および江戸・大坂開市について、1863年1月1日(文久2年11月12日)から五年間延期する。
2、長崎・箱館・神奈川各港においては、商品の数量制限や大名との直接貿易禁止など、日英修好通商条約に違反している貿易の制限を撤廃し、条約の取り決めを遵守し、外国人の排斥を行わないこと。
3、対馬の開港、三五%となっている酒税の五%への引き下げなどについて、帰国の上、大君の決定を仰ぐこと。
 5年延期については、オールコック公使により他の国も合意しました。
 
 6月5日(7月1日)、オランダ国王ウイレム三世に謁見
 オランダ政府は合意せず、交渉中断(後に「ロンドン覚書」と同様の合意した)
 6月25日(7月21日)、プロイセン国王ヴィルヘルム一世に謁見
 7月8日(3日)
      外務大臣ベルンシュトルフ伯とベルリン覚書」に署名
 7月19日(8月14日)、ロシア皇帝アレクサンドル二世謁見
 8月19日(9月12日)、イグナチェフ外務大臣と5年延期の覚書、
  国境画定の両国の全権委員をカラフトに派遣するという約定書に調印
 8月29日(9月22日)、パリ到着
 閏8月9日(10月2日)、トゥヴネル外務大臣と「パリ覚書」に調印
 「パリ覚書」は「ロンドン覚書」に準ずるものです。
 このころ、現地の新聞では「生麦事件」が報じられ、ヨーロッパにおける使節に対する視線は一気に悪化しました。最後の訪問先のポルトガルにはフランス政府御用達の戦艦が用意されましたが、船内では食事も十分に与えられないような扱いでした。
 その後、ポルトガルでポルトガル国王ルイス一世に謁見し、ジブラルタル海峡を経由して地中海に入り、スエズ港からフランス海軍輸送船ヨウロピアン号に乗船して帰途に就いた。
12月10日(1863年1月29日)横浜港到着、11日に品川に上陸
 
 二都・二港開市・開港期限延期は何とか果たしたものの、使節一行が帰国してみると、生麦事件は横浜の外国人に衝撃をもたらし、外交への影響は計り知れない大きなものになっていました。西洋を学んで帰国した若者たちを待っていたのは、一層激しくなった攘夷旋風でした。帰国した彼らは海外の話をすることもできないくらいで、身を潜めて暮らさなければなりませんでした。
 
 
 
 
目的:横浜鎖港談判
 
《生麦事件賠償問題と薩英戦争》
 
 二都二港開市・開港期限延期談判使節(第一次遣欧使節)がヨーロッパ滞在中に、国内では凄惨な外国人殺傷事件が続いていました。
 文久2年5月29日(6月26日)には、前年に続いて、イギリス公使館の東禅寺が襲撃され、第二次東禅寺事件が発生し、イギリス人水夫2人が殺害されました。公使館警備中の松本藩士が、オールコック公使渡欧中の代理公使ジョン・ニールを狙った事件でした。ニール代理公使は幕府に対して、警備に当たった大名(松本藩松平光則)の処罰と公使館警備の強化、および二人の水兵の遺族への賠償金1万ポンドの支払いを要求しました。
 
 同年8月21日(9月14日)には生麦事件が発生しました。薩摩藩の国主島津久光が将軍に幕政改革を提言し、江戸からの帰途、400人の供を従えて生麦村に差し掛かったところに、イギリス人男性3人と女性1人が迷い込み、乗馬のまま行列の横を通過しようとしました。久光を護衛していた薩摩藩士がただちにこれを討ち止め、リチャードソンという商人が即死、マーシャルとクラークの二名も重傷を負い、アメリカ領事館に逃げ込み、ボロデール夫人は居留地に逃げ帰りました。この事件について、ニール代理公使は、幕府に対して生麦事件への謝罪と10万ポンドの賠償金を要求し、薩摩藩には2万5千ポンドの賠償金と下手人の処刑を要求しました。
 
 さらに、二都二港開市開港期限延期談判使節が帰国した直後の12月12日(1863年1月31日)には、上海帰りの長州藩士高杉晋作を隊長とする久坂玄瑞、伊藤俊輔(後の総理大臣、伊藤博文)、志道聞多(しじもんた)(後の外務卿、井上馨)ら、吉田松陰の教えを受けた浪人約30人が、落成間近の御殿山に新築中のイギリス公使館に放火し焼払う、という事件が発生しました。
 
 イギリス公使襲撃事件や生麦事件さらには公使館焼き討ち事件などが発生し、ニール代理公使は、幕府と島津藩を相手に賠償金支払いを要求し、犯人逮捕を糾弾しましたが、これに対する幕府の対応が曖昧なまま推移していました。
 一方、これを不服とするイギリスに対して、フランスのベルクール公使は、反幕勢力を阻止するために、幕府と共に戦艦出動などの武力行使を申し出ました。このような緊張が高まる中、さらなる外国人襲撃の風説が横浜居留地を恐怖に陥れていました。
 文久3年2月13日(1863年3月31日)、将軍家茂は3000人の幕兵を率いて上洛しました。将軍家茂の上洛は第三代将軍徳川家光以来230年振りの上洛でした。公武一和以後、徳川幕府の中枢は京都にあり、天皇の意向は幕政に影響し始めるのでした。
 朝廷はあくまで攘夷にこだわり、5月10日(6月25日)を攘夷期限と定め、将軍も止む無くこれに応じました。幕府は直ちに攘夷勅命の趣意を各国公使に通告するとともに、横浜鎖港の実施と外国人の横浜退去を言い渡しました。
 
 このような事態に至り、各国は、開戦に備えるために、また在留の自国民を保護・収容するために、横浜に艦隊を集結させました。4月はじめの時点で、イギリス11、フランス3、オランダ2、アメリカ1、合計17鑑が横浜港を埋め尽くしました。とくに、イギリス海軍は江戸への侵入も辞さない姿勢を示したため、横浜のみならず、江戸の町々までもパニック状態に陥りました。そのため、横浜では外国人居留地の日本人は退去し、江戸では、老幼女子の近郊退避を命じ、多くの人々が郊外に逃れました。
 百姓町人だけではありませんでした。幕府は前年の幕政改革によって参勤交代を緩和すると同時に、大名家の家族や一部家臣を国許に帰すよう命じていたため、文久2年から3年にかけて江戸詰の武家の国許への異動が急速に進みました。佐倉藩堀田家では江戸詰の大勢の家臣が佐倉の国許に移住したため、住居が確保できず、それぞれ親戚・友人などの家に同居せざるを得ませんでした。佐倉藩では急遽近郊の土地を確保し、これを家臣に与え開墾させました。
 
 幕府は、強硬姿勢のイギリスに攘夷実行期限前に説得を試みようとしますが、ニール代理公使は賠償金支払いと横浜鎖港中止を主張して、交渉に応じませんでした。
 この当時の徳川幕府は将軍をはじめとして、幕閣は京都にありました。
「攘夷期限」の文久3年5月10日(1863年6月25日)、江戸の留守を預かる小笠原図書頭(ずしょのかみ)長行は厳しい外交交渉を続けていましたが、それも行き詰まり、止むなく京都の幕府の許可なく、イギリス代理公使ニールに賠償金を支払います。生麦事件の賠償金10万ポンドと、第二次東禅寺事件の賠償金1万ポンド、合わせて11万ポンドをイギリスに支払ったのです。
 ところが、同じ5月10日、攘夷の最先鋒である長州藩が攘夷断行と称して、下関碇泊中のアメリカ商船ペンブローグ号を、海岸の砲台と長州藩戦艦により砲撃しました。同月23日には海上を通航していたフランス戦艦キャンシャン号を陸上砲台から砲撃し、さらに5月26日には横浜に向かうオランダ戦艦メデゥーサ号に砲撃を加え、これにオランダ艦も応戦しました。長州藩による下関海峡封鎖による外国船砲撃事件です。各国艦隊は直ちに出撃して報復攻撃を実施し、軍監2艘を破壊、砲台を破壊し、民家を焼き払いました。
 5月20日、小笠原図書頭は、賠償金支払いの弁明と、京都に足止めされている将軍家茂を迎えるために1600人の幕兵を率いて、軍艦に乗艦して大坂に向かいますが、幕府は攘夷を覆そうとした小笠原の行為をとがめ、老中職を罷免せざるを得ませんでした。
 
 イギリスの代理公使ニールは、幕府との賠償金問題は解決したものの、薩摩藩は賠償金支払いも犯人逮捕にも応じないため、7艦の戦艦を引いて鹿児島に向かわせました。そして、7月2日(8月15日)に薩摩藩船二艘を拿捕し、先端が開かれました。いわゆる薩英戦争です。艦砲射撃による市街地の被害は大きかったものの、薩摩藩の反撃もすさまじく、イギリス艦隊側にも被害が及んだ。しかし、半月後にはイギリス艦隊は鹿児島湾を跡にせざるを得ませんでした。
1863年12月5日付「Lemond Illustre」紙に掲載された薩英戦争の図(E.ローベンス作)
 
 結局、11月1日(1863年12月11日)、薩摩藩は江戸においてイギリスと和睦を結び、生麦事件犯罪人の処刑を保証するとともに、事件の遺族と被害者に2万5千ポンド(10万ドル)を支払い、生麦事件は決着しました。 
 
《薩摩藩の遣英使節と留学生の派遣》
 
 薩摩藩は薩英戦争の後、イギリス代理公使ニールとの講和会議において、留学生のイギリス派遣を要請し、ニールはこれを了承しました。そして、15人の留学生の派遣と合わせて、家老新納(にいろ)刑部を正使と、船奉行松木弘安(寺島宗則)、同五代才助(友厚)など4人の遣英使節を派遣しました。遣英使節の目的は、イギリスを訪問して貿易商社を設立し、武器・紡績機械その他の調達、薩摩藩の産物の輸出、さらに藩内において機械紡績工場の建設を進めるとともに、政府要人とも面談し、薩摩藩独自の外交的な活動を行おうとするものでした。幕府がロシュ公使と蜜月外交を進めているのに対して、薩摩藩はそれをしのぐ勢いで西洋との直接交流を進めようとしていたのでした。
 慶応1年3月22日、使節一行と留学生は、イギリス商社ジャーディン・マセソンの長崎代理店トーマス・グラバーが調達した船で密かにイギリスに向かいます。もちろん海外渡航は禁止されているため、全員偽名を呼称しての密航でした。
 薩英戦争以後、薩摩藩はイギリスに急接近し、フランスと蜜月外交を展開していく幕府との対立が浮き彫りになり、幕府と薩摩藩の国内を二分する問題と、フランスとイギリスの外交における思惑、が錯綜する複雑な政治環境が出現し始めることになります。
 
 
《横浜鎖港談判使節派遣の決定の経緯》
(第2次遣欧使節)
 
 徳川幕府はイギリスに対して生麦事件の賠償金を支払いましたが、横浜・長崎・箱館の三港では相変わらず開港したまま貿易が継続されていました。しかし、孝明天皇の攘夷主義的考え方は不変であり、三港を閉鎖するよう幕府に圧力をかけ続けました。
 文久3年8月4日、朝廷はすでに開港している三港の閉鎖を布告しました。8月14日、将軍後見職の一橋慶喜は、天皇の叡慮を安んずるため、鎖港の方針を決定し、すでに開港している三港のうち、横浜一港を鎖港することに決定し、幕府は各国代表に横浜鎖港を通告しました。
 横浜港は全国の貿易額の7割を占めており、とくに生糸・茶・銅などを主とする輸出額は全国の8割を占めており、鎖港による通商への影響は甚大です。当然のことながら、各国はこの通告に激しく抗議し、フランスのベルクール公使は老中に書翰を送り、自分の役目は現行の条約を守ることであり、条約に違反する要請を自分は受け取るつもりはない、本国政府宛てに文書を提出するのであれば、私が本国に届ける、と冷たくあしらいました。
 しかし、元治1年2月14日(1864年3月21日)、第14代徳川将軍家茂は二度目の上洛により、天皇に攘夷決行(横浜鎖港)の奏上を余儀なくされ、横浜鎖港談判のための使節を派遣することを決定しました。
 
 各国が幕府に対して強硬姿勢を続ける中で、フランスのベルクール公使は、イギリスが生麦事件において行った薩英戦争のような挙に出ることは得策ではなく、外交によって事件を解決するべきであるという姿勢を幕府に示しました。但し、下関における長州藩による砲撃で被害を受け、戦死したアンリ・カミュ海軍少尉への謝罪と賠償については、本国政府に直接伝えるべきだと通告しました。
 幕府はベルクールの比較的融和的な対応を評価し、鎖港談判をフランスに依存することにしました。そして、12月21日(1864年1月29日)、幕府はイギリス、フランス、アメリカ、オランダ、ポルトガル、プロイセン、ロシア、スイス、の8カ国の在日公使らに遣欧使節派遣を正式に通告し、鎖国の旧習は容易に変革できず、国内の「人心不折合」のため止むを得ない状況である、と弁解しました。
 使節は12月29日に横浜を出港するが、その前日の28日に徳川将軍家茂は品川を出港し、海路大坂に向かい、上洛して元治1年2月14日に天皇に拝謁して横浜鎖港を上奏しました。
 今回の横浜鎖港談判使節の派遣については、薩摩藩など国内はもちろんのこと、在日公使らからは憤りとともに完全に拒否されたもので、本国政府の承諾が得られる望みはなかったのです。それを承知で派遣されるのであり、国内の「人心折合」を図るための建前として、また天皇への表向きのパフォーマンスとして、各国と見せかけの交渉をするということになるのは明らかでした。
1863年9月12日付london Illustrated News紙に掲載された横浜外国人居留地全景図
上の図は山手から居留地の西部地域に当たる新田辺りの眺望
下の図は山手から海岸に向けた眺望、多数の戦艦などが停泊しているのが分かる
 
《横浜鎖港談判使節の交渉決裂》
 
横浜鎖港談判使節(ナダール撮影、GALLICA/フランス国立図書館デジタル図書館「Ambassadeurs Japonais - France」掲載写真)、前列左から、副使 河津伊豆守祐邦、正使 池田筑後守長発、目付 河田相模守熙、後列左から、田辺太一、矢野次郎兵衛、塩田三郎、益田鷹之助、斎藤次郎太郎
 
1862年4月4日スフィンクス前で写真撮影する横浜鎖港談判使節(国立国会図書館電子展示会「本の万華鏡」掲載写真)、
幕末維新期に多くの日本の貴重な写真を残したフェリーチェ・ベアトの弟アントニオ・ベアトが撮影したものです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 幕府による池田筑後守の処分について、英字新聞「Japan Herald」紙の記者ジョン・ブラックは、1865年6月24日の同紙に投稿し「幕府はパリ約定を破棄したが、その条項のかなりの部分は今や実行されつつあるではないか。ヨーロッパであれば、国家のために忠誠をつくして働いた臣下を罰するような君主は暴君の烙印が押され、笑いものにされるだろう、その一方、処罰を受けた者は殉教者とされるだろう」と指摘し、条約締結国の代表団に、池田らの処分破棄を幕府に働きかけるよう求めました。
 横浜鎖港談判使節に任命されたのは、正使として外国奉行池田筑後守長発(ながおき)で副使には外国奉行河津伊豆守祐邦(すけくに)目付として河田貫之助でした。また、使節が不測の事態に陥った場合に使節代理を勤める組頭に外国奉行の田辺太一(やすかず、たいち)が任命されました。
 因みに、組頭として渡欧することになった田辺太一は、彼の著書「幕末外交談」に当時の心境を記しています。
 田辺太一は開国に賛成する側に立っていたため、外国奉行所の面々同様に、条約に違反する横浜鎖港など各国政府が認めるはずがなく、交渉は成立するわけがないと思っていました。しかし、かねがね外国に行ってみたいという強い望みもあり、また国内にいてもいつ殺害されるか分からないから、しばらく外国にいた方が良い、との上司の助言もあって、ともかく幕命を受けることにしたのでした。
  
 文久3年12月29日(1864年2月6日)、使節はフランス海軍コルベット艦ル・モンジュ号に乗艦して横浜を出港しました。
 文久4(元治1)年1月6日(1864年2月13日)、一行は上海に到着しました。ところが、11日に偶然にも帰任途中のイギリス公使オールコックに出会い、使節の目的を聞くと激怒し、せっかく自分が二都二港開市開港期限延期談判を収めたにもかかわらず、横浜鎖港などは言語道断であるとして次のように語りました。

 これは両国間の親交を保持するものではなくて、かえって戦争の機会をうながすものである。公使は、両国の間に介在して和を保ち、戦を避けるのを職掌とするものであるから、予は日本政府にこのような企てがあるのを聞き流しにすることはできない。 

 3月10日(1864年4月15日)、一行はフランスのマルセイユに入港し、3月16日にパリに到着して、20日にドルーアン・ド・リュイス外務大臣と会談しました。28日にはチュイルリー宮殿で皇帝ナポレオン三世に謁見しました。
 リュイス外務大臣との交渉においては、カミュ少尉殺害の遺族への賠償金の支払いについては3万5千ドルで決着したものの、横浜鎖港交渉については全く受け入れられず、逆に生糸輸出制限の改善を迫られました。
 リュイス外務大臣との交渉は9回に及びましたが、横浜鎖港の承諾はついに得られず、5月17日(6月20日)の第9回目のリュイス外務大臣との間で、次のような「パリ約定」を締結するに至りました。
 1、下関海峡における長州藩の砲撃に対する賠償金を、幕府が10万ドル、長州が4万ドル支払うこと
 2、フランス海軍の指揮官とともに通航を確保すること
 3、第一次遣欧使節が交わした「パリ覚書」において確認した関税率の引き下げを早期に実施すること
 条約は横浜鎖港を認めるどころか、幕府に条約の徹底とさらなる条件を突きつけるものとなりました。
 池田正使はフランス政府との最悪の交渉結果を受けて、当初予定していた残りの7カ国の訪問を中止しました。そして、横浜鎖港の交渉が失敗したことについての罪を意識しつつも、鎖港などを唱える無識無学の輩を退けて見せる、というほどの覚悟をもって、決然として帰国することにしたのでした。
 
 使節はその日のうちにパリを出発し、5月25日(6月28日)にマルセイユを出港し、元治1年7月18日(8月19日)に横浜に到着しました。断りもなく戻ってきたことを聞いた老中は驚き、直ちに上陸を差し止めました。池田筑後守長発はこれを無視し、毅然として江戸に戻ったものの、7月30日に正使池田筑後守・副使河津伊豆守・目付河田相模守の三使は職掌を召し放ち、池田は半知を召し上げられ、閉居させられました。
 結局、池田使節が日本を出発した直後に上海でオールコック公使に苦言を受けたとおりの結果になったのでした。
 幕府は横浜鎖港と「パリ約定」の破棄を求める使節を再度派遣することを各国公使に伝えますが、各国はこれを撤回するよう求め、結局、幕府は使節の派遣をあきらめました。
  
《池田筑後守の開国建言書》
 
横浜鎖港談判使節正使池田筑後守長発の写真と名刺
(国立国会図書館電子展示会「本の万華鏡」掲載写真)
 正使池田筑後守長発(ながおき)は、天保8(1837)年7月生まれで、出立の日の年齢は36歳です。遣米使節正使新見は38歳、第1回遣欧使節の正使竹内は55歳でした。池田の若さが際立っています。確かに若く優秀な池田でしたが、その使命は前2回の遣外使節と比べ、最も困難な使命を担っていました。だからこそ、若い彼に白羽の矢が当たったのでしょう。
 池田筑後守長発は帰国後直ちに建言書「仏国巴里府より一と先(ひとまず)帰府仕候趣意柄申上候書付」を幕府に提出しました。
 前書きに「横浜鎖港は止むを得ない事情によるものではあるが、和親を唱えながら鎖港するというのは理屈が通らず、政府の不行き届きを露わにするだけで、却って外国から侮られ、隙を狙われる。恐れながら御国辱の一端にもこれあるべく候」と記しています。
 建言書には以下のとおりの5項目の提言が記載されており、その5項目の具体的な内容を記した提言書5通が添付されていました。5項目の提言というのは以下のとおりですが、個々提言が記された添付した。
第一、西洋の事情を把握し、本国政府と直接伝えるために、弁理公使を欧州各国に置くこと。
第二、現在条約を締結していない西洋諸国および東洋各国と和親の条約を結ぶこと。
第三、海陸二軍のみならず、治国・経済など西洋の進んだところを取り入れるために留学生を派遣して学ばせること。
第四、西洋諸国の新聞社と契約し、駐日公使らに任せるだけではなく、幕府の政策や日本の事情を正確に諸国に伝えること。また「パブリック・オピニオン」を集めて理解を深めること。
第五、国民を自由に外国に渡航させ、また移住させ、国際商法を学ばせ、日本の産物を各国に広め、また各国から産物を集めて商業を繁栄させること。
 
 池田筑後守らしい、信念と熱意と勇気ある、そして理路整然とした建言書であると言えるものですが、公武一和を重視する幕府には全く通じず、苛烈な処分を受けることになったのでした。
 西洋では新聞が国民の心を動かしているのを知った彼は、「パブリック・オピニオン」(公論)という英語を、おそらく日本人として初めて使用し、新聞によって幕府の方針・政策を世界に広報しようというのでした。世界的視野で外交を考える大きなきっかけになったとも言える遣欧使節でしたが、池田使節が万民平等の西洋社会に強く刺激されたことがうかがえます。後に、小栗上野介のように、新聞の発行などの必要性を説く者も現れたが、池田はまさにその先駆けでした。
 
 
 
 
《長州藩下関海峡封鎖事件と四国艦隊下関砲撃事件》
 
 外国船にとって、下関事件以後も下関海峡の通航が危険な状態にありました。長州藩による下関海峡封鎖事件です。横浜鎖港談判がその途次に上海で使節と遭遇し、危機感を覚えたイギリスのオールコック公使は、着任後第一に取り組んだのは、長州への報復攻撃でした。彼は、幕府がパリ約定を破棄すると宣言した上に、下関海峡の通航を妨げている長州藩に対して何の手立ても講じていないことを非難しました。そして、本国政府に要請して香港駐留の海軍を横浜に呼び寄せ、下関通航確保のために、アメリカ・フランス・オランダに呼び掛けて、四国連合艦隊の編成に着手しました。
 
 その長州藩を激怒させたのが、元治1年6月5日(1865年7月27日)に京都の池田屋に集まっていた長州の攘夷派を、新撰組が捕縛・殺害した事件(池田屋事件)でした。これをきっかけに、長州藩内の強硬派が激高し、状況が一変しました。
 池田筑後守らが帰国した翌々日の7月19日、その長州軍が、禁裏御所の蛤御門守衛の会津・桑名両藩に銃撃戦を仕掛け、天皇のお膝元の京都市中は戦火に覆われたのでした。しかし薩摩藩も加わってこれを撃破し、結局長州勢を撤退させました(禁門の変、蛤御門の変)
 幕府は8月2日に諸侯に対して長州征討を命じます。
 
 一方、7月27日、イギリス艦9艘、フランス艦3艘、オランダ艦4艘、アメリカ艦1艘、合わせて軍艦17艘で編成された4か国連合艦隊が横浜を出港しました。兵員総数5014人の大遠征軍でした。そして、8月5日(1864年9月5日)、下関海峡に進出して砲撃を開始しました。四国艦隊下関砲撃事件です。
下関前田砲台を占領したイギリス海軍(1864年12月24日「The Illustrated London News」紙掲載絵図、
フェリーチェ・ベアトが撮影した写真を銅版画に描いた)
 
 長州藩は、この事件については攘夷実行期限が迫る中で、幕府が何も手を打てないために実行したものであると弁明しています。
 当然のことながら、各国は直ちにこれに報復します。アメリカのプリュイン公使は、横浜碇泊中のワイオミング号を向かわせ、6月1日には主力艦壬戌丸(じんじゅつまる)など長州の軍艦2艘を撃沈しましたさらにフランスの艦隊も下関海峡に向かい、同月5日に陸戦隊が上陸して砲台を破壊し、また民家を焼払いました。
 
 
 
徳川幕府の幕末外交
 

フランス公使レオン・ロシュ
(アーサー・デュブルゲ撮影、GALLICA/フランス国立図書館所蔵)
 

イギリス公使ハリー・パークス
(東洋文化協会編「幕末・明治・大正回顧八十年史. 第5輯」掲載写真)
 

アーネスト・サトウ
(アーネスト・サトウ著、坂田精一訳、岩波書店発行「一外交官の見た明治維新上」掲載写真)
 
1867年8月10日「The Illustrated London News 」紙に掲載された徳川将軍慶喜に関する記事と肖像画
 
徳川将軍慶喜、4か国代表との謁見の図
(1867年8月24日「The Illustrated London News」紙掲載絵図)
【徳川幕府とロシュ公使】
 元治1年3月22日(1864年4月27日)に、フランスのベルクール公使の後任レオン・ロシュ横浜に到着しました。そして横浜鎖港や日本国内の「人心不折合」で徳川幕府と外国代表との関係は最悪の状況にあり、さっそくオールコック公使が進める4国連合艦隊による下関砲撃事件に立ち向かわなければなりませんでした。しかしながら、フランスのロシュ公使は幕府が外交面で苦難にある状況の原因が朝廷や西南諸侯にあることを次第に理解し、ついには、日仏外交は「蜜月」と呼ばれるほどの関係に変化します。この時、勘定奉行の小栗上野介忠順(ただまさ)とロシュ公使の関係を取り持ったのは軍艦奉行並の栗本鯤(こん)(通称瀬兵衛、のち鋤雲)でした。彼は同じフランス人のメルメ・カションからフランス語を学び、彼もまたカションに日本語を教えていました。
 
 一方、元治1年8月14日(1864年9月14日)、4か国連合艦隊司令長官でイギリス艦隊のキューパー提督はフランス艦隊ジョーレス提督とともに、長州藩家老宍戸備前や高杉晋作ら8人を、イギリス戦艦ユーリアス号艦上に迎え、会談を実施しました(講和会議)。会議では、外国船の下関海峡の自由通航、薪水・食料その他の供給、強風時の上陸、砲台築造など海峡再武装の禁止、賠償金支払、などを協議し、和議が成立しました。ところが長州藩は、幕府の方針に従って「攘夷実行」すなわち外国船を砲撃したのであり、賠償金支払責任については「攘夷断行」を朝廷に約束した幕府にあると主張しました。これにより、下関事件賠償金問題は、4か国と徳川幕府との交渉に移りました。
 そして、幕府は賠償金300万ドルを6回分割で支払うことで合意しました。しかし、後のことになりますが、各国の度重なる要求にもかかわらず、幕府は幕末までに完済することができませんでした。明治維新を迎え、賠償金の支払いは皮肉にも、武力討幕を成し遂げた長州藩などを中心とする新政府がその返済義務を負うことになります。
 
【英仏の思惑】
 下関海峡封鎖を断行した長州藩に激怒していたイギリスのオールコック公使は、この和議により、薩摩藩に続いて長州藩もまた西洋の近代的な技術に関心を抱いていることを理解しました。そして、オールコックは彼らが幕府の専横を糾弾し、自ら自由貿易を獲得しようとしていることにも気付きました。
 しかし、そのオールコックについて、イギリス議会は公使の現地外交は中立的な立場を堅持するべきであるとして、彼が4国連合艦隊を主導して長州藩を攻撃した責任を問い、政府はオールコックを解任しました。後任にはハリー・パークスを任命します。しかしのちに、ヴィクトリア女王は、オールコックが四か国の艦隊を送って戦争に勝利したことは、女王と親睦なる日本政府との威力を増大せしめたものである、と称賛しました。
 オールコックは、井伊大老が無勅許で条約を締結した「違勅調印」条約を改め、天皇に勅許を奏上することを幕府に提言して、日本を去りました。
 
 ちょうどこのころ、ヨーロッパでは蚕の微粒子病の流行によって、生糸産業に多大な影響を及ぼしており、とくにフランスの絹織物産業は壊滅的な被害を蒙っていました。そして、原料のひっ迫により養蚕業の復興が国家的な問題になっていたため、ロシュ公使は幕府に蚕卵紙の輸出を要請されていました。幕府はこの要請に応じて、蚕卵紙の供給を始めましたが、ロシュ公使はこれを機に、朝廷や薩摩・長州など西南諸侯との対立関係にある徳川幕府を支え、ナポレオン政府との蜜月が始まるのでした。
 この状況に、駐日各国の代表者たちはフランスへの贔屓貿易を非難したため、幕府は供給の公正を図るべく他国との調整を余儀なくされました。しかし、ロシュ公使と幕府との関係はより密接なものとなり、その後もナポレオン政府のバックアップを受けたロシュ公使は、横須賀製鉄所の建設フランス陸軍軍事顧問団の日本派遣パリ万国博覧会への使節の派遣など、大規模プロジェクトで徳川幕府を支え、両者の蜜月が続きます
 
 慶応1年閏5月16日(1865年7月8日)、後任のイギリス公使ハリー・パークスが戦艦レオポルド号で横浜に到着しました。彼は横浜に到着する前に、下関に立ち寄り、講和会議後にイギリスとの通商を望んでいるという長州藩の伊藤俊輔(のちの総理大臣伊藤博文)、井上聞太(のちの外務大臣井上馨)、桂小五郎(木戸孝允)と会談し、長州藩の意向や現状認識について聴取しました。パークス公使が長州藩の三人と会談したことは、彼のその後の日本外交に少なからざる影響を及ぼしたに違いありません。
 このような日本の政治情勢についての見方をリードしていた人物がいました。
 彼の名はアーネスト・サトウです。「サトウ」と言っても日本人ではありません。彼は純粋の若きイギリス人外交官で、のちに彼はジャパン・タイムズに投稿した論文は「英国策論」と題して出版され、多くの日本人にも読まれ、大きな反響を呼ぶことになりました。彼は、安政5年の条約は徳川幕府という、日本最大の大名とは言え、一大名に過ぎない政府との条約であって、日本を代表する者との条約とは言えない、と主張しています。そして、「大君を本来の地位に引き下げて、これを大領主の一人となし、天皇を元首とする諸大名の連合体が大君に代って支配的勢力となるべきである」と提言しています。
 
【条約勅許と兵庫開港問題】
 パークス公使は日本国内の「人心不折合」の最大の原因は、安政5か国条約が「違勅調印」によるものであり、その解決が駐日イギリス公使として為すべき課題であることを確信しました。そして、開市開港が延期される中で、兵庫開港と天皇の条約勅許を幕府に強く要請しました。しかし、ロシュ公使はこれに不満で、幕府に長州藩処罰を主張しますが、結局、パークス公使の大坂湾への艦隊出撃に同意することになります。
 慶応1年9月13日(1865年11月1日)、イギリス国特派全権公使パークス、フランス国全権公使ロシュ、アメリカ国代理公使ポートマン(4月1日にプリュイン公使は任期途中で帰国)、オランダ国総領事ファン・ポルスブロックの四か国代表は、将軍家茂に条約勅許と兵庫先期開港を要求するために、軍艦九艘(イギリス5艘、フランス4艘、オランダ1艘)を率いて横浜を出帆し、16日に兵庫沖に到着しました。
 大坂在留の幕閣は4か国代表と協議したものの、混乱を極め、将軍家茂は朝廷に辞任伺いを朝廷に提出するに至りますが、一橋慶喜などの仲介により何とか収拾することができました。その後、舞台は京都に移り、公武一和を支える一橋、会津、桑名すなわち「一会桑」と呼ばれる政権中枢の禁裏守衛総督の一橋慶喜は、松平肥後守容保、松平越中守定敬、小笠原壱岐守長行連名で、武家伝奏の飛鳥井中納言と野宮中納言に、改めて条約の勅許を奏請しました。
 その結果、慶応1年10月5日(1865年11月22日)、安政5か国条約の条約勅許」は下されましたが朝廷は京都に近い兵庫開港は許しませんでした。兵庫開港は予定どおり、1868年1月1日(慶応3年12月7日)に実施されます。
 
 慶応2年1月21日に薩長同盟が成立すると、薩長などの西南諸侯と徳川幕府との対立関係はますます深まり、武力討伐も辞さない勢いで幕府に厳しい選択を迫ります。
 7月20日、苦境にあって悩み続けた第14代徳川将軍家茂が死去します。
 後継将軍が不在のまま5が月が過ぎた慶応2年12月5日(1867年1月10日)、徳川慶喜に第15代将軍宣下が下されました。朝廷と最も近い立場にあった一橋慶喜でした。
 フランスのロシュ公使は、将軍宣下の前月にナポレオン政府を模した「国政改革の大綱案」を慶喜に提出していました。
 将軍慶喜はさっそく、駐日各国代表者との会見を望み、翌慶応3年3月に実現します。この時、イギリスのパークス公使は、会見の条件として兵庫開港を迫りますが、一方のロシュ公使はパークス公使の意図を未然に把握し、会見前に慶喜と2日間にわたる会談を行い、「国政改革の大綱案」を説明するとともに、「権現様の旨意と、三代将軍様の英邁と、慶喜公のフランスへの愛、の三つが備われば、世界に対して一点の恐れもなくなり」と、新将軍を励ましました
 
 徳川慶喜による各国代表との内謁見(饗応)と公式謁見が、大坂城において執り行われました。謁見式に関わる準備は外国奉行の栗本安芸守鯤が四公使と調整しました。
 内謁見は、3月25日にイギリスのパークス公使、26日にはオランダのポルスプルック総領事、27日にはフランスのロシュ公使、29日にはアメリカのヴァン・ファルケンバーグ公使と、それぞれ個別に饗応の式典が行われました。饗応については小栗上野介がすべて手配し、饗応時の料理については、横浜のオテル・ド・コロニーの社長ラプラスが請け負いました。
 公式謁見はそれぞれのお目見えの翌日以降に行われ、各国代表との公式謁見の場が設けられました。
 それにしても、老中や若年寄は普段傍にも寄れない将軍と同じテーブルで、それもすぐ隣の席に座り、ナイフとフォークで食事をしたわけです。これほど居心地の悪いことはなかっただろう。否、将軍と並んで座って食事ができたことに感動したかもしれません。
 
 なお、謁見場において、フランス公使・アメリカ公使・オランダ総領事らは、将軍を「Your Majesty(ユア・マジェスティ)すなわち「陛下」と呼称しましたが、イギリスのパークス公使は、予想どおり「Your Highness(ユア・ハイネス)」すなわち「殿下」と呼びました。これは、予てからアーネスト・サトウが指摘していた呼称の問題ですが、パークス公使にとって「Your Majesty」に当たるのは「天皇」しかいないとの考え方に基づくものでした。
 
 元治1年から幕府崩壊に至るまでの徳川幕府とロシュ公使の関係は、パークス公使と西南諸侯との関係ともつれ合い、複雑な外交と国際問題を惹起することになります。とくに幕府とロシュ公使の蜜月時代については、是非「西洋との遭遇 幕末・維新アナザーヒストリー」第8章をお読みください。
 
 
 
幕府とフランス政府による大規模プロジェクト
その1 横須賀製鉄所の建設
 
小栗上野介忠順
(国立国会図書館電子展示会「近代日本人の肖像」掲載写真)
 
フランソワ・ヴェルニー(横須賀海軍工廠編「横須賀海軍船廠史第1巻」掲載写真)

 慶応1年12月29日、第14代徳川将軍家茂は、フランス皇帝ナポレオン三世ナポレオン三世に書翰を送り、造船所建設、大砲その他の武器・武装の供給、陸軍教師の派遣、留学生の派遣、アラビア馬の贈呈、その他さまざまな事業に対する協力への感謝を述べ、引き続き末永い親交を求めました。

 これら徳川幕府への援助はフランス駐日公使のレオン・ロシュの強い援助によるものであり、これらのプロジェクトの推進には勘定奉行の小栗上野介忠順の存在が欠かせませんでした。

 小栗は遣米使節の目付としてアメリカに行き、ワシントンの海軍造船所で驚くべき巨大設備と高度な技術を目の当たりにして、近代的な造船所の日本での建設を夢見たのでした。その後、フランスのロシュ公使の協力を得てその夢が実現し、蒸気軍艦の造船所建設を横須賀に建設することが決定しました。

 元治1年11月に小栗上野介は栗本錕とロシュ公使の通訳官メルメ・カションの仲介により、ロシュ公使と初めて面会し、製鉄所の建設に協力を要請しました。

 横須賀製鉄所すなわち海軍造船所の建設については、ロシュ公使は造船技師であるフランソワ・ヴェルニーを呼び寄せて、慶応1年9月に土地の造成に着手し、翌慶応2年3月には建設工事が始まり、小型船造船施設を皮切りに徐々に規模を拡大しながら、蒸気軍艦の製造が始まりつつありました。

 しかし、徳川幕府の崩壊によって横須賀製鉄所は中断します。明治新政府は徳川幕府の痕跡を跡形もなく壊滅する中で、不思議にも、横須賀製鉄所は存続させ、ヴェルニーに引続き監督させます。しかし、明治8年に政府は日本人で横須賀製鉄所を運営することとし、ヴェルニーの契約を解約しました。

 予てから横須賀製鉄所の建設については、「無用不急の務」であるなど、上野介を批判するものもありましたが、小栗上野介は我れ関せず、断固としてこの事業をやり遂げました。栗本錕が彼の言葉を残しています。確かに幕府の財政はひっ迫しているが、製鉄所を思い切って建設することによって、他の無駄な費用を削減する口実にもなる。でき上ったら、熨斗を付けて土蔵付の栄誉ある売家として残すことができる、と。

 その小栗も、幕府軍が鳥羽伏見の戦いに敗れ、徳川慶喜が江戸に戻ってくると、直ちに慶喜に対して新政府軍討伐作戦を提示し、再起を促しました。しかし、恭順を決意した慶喜はこれを却下し、あまりに過激な彼の行動に付、小栗は御役御免を言い渡されました。そして、知行所である上野国権田村に、妻子を連れて転居しますが、総督府の命令により、小栗は捕えられて、家臣と共に斬首され、嗣子又一も同じく斬首されました。

 明治政府は小栗上野介の言葉どおり、横須賀製鉄所を守り続け、海軍の創設に大いに役立ったのでした。明治45年(1912年)の夏、ロシアのバルティック艦隊を壊滅させて日本海海戦を大勝利に導いた東郷平八郎は、私邸に小栗上野介の娘クニの婿小栗貞雄と嫡男又一を招き、日露海戦の勝利は横須賀海軍工廠に負うところ大であった、と小栗上野介の先見の明に敬服し感謝の意を表しました。

慶応3年当時の横須賀製鉄所
(横須賀海軍工廠 編「横須賀海軍船廠史第一巻」掲載写真)

 
 
 
徳川幕府とフランス政府による大規模プロジェクト
その2 フランス陸軍軍事顧問団の招聘
 
ナポレオン三世が徳川幕府に派遣したフランス陸軍軍事顧問団、前列左から、デュ・ブスケ、メスロー、シャノワーヌ首長、ブリュネ、デシャルム(エミール・グセル撮影、フランス国立図書館ウエブサイト「Souvenir de Cochinchine」掲載写真)
 

【第一次フランス陸軍軍事顧問団の来日】
 小栗上野介は富国強兵のためにさまざまな事業を推進しましたが、フランスのロシュ公使との間で実現した横須賀製鉄所と並ぶもう一つの大プロジェクトがありました。
 それはナポレオン政府によるフランス陸軍軍事顧問団の招聘でした。

 慶応2年12月8日(1867年1月13日)、首長シャルル・シャノワーヌ大尉に率いられた15人からなるフランス陸軍軍事顧問団が横浜に到着しました。時の徳川将軍慶喜はちょうど3日前に将軍宣下を下されたばかりでしたが、この頃、慶喜は京都にあり、直接歓迎することはできませんでした。しかし、翌慶応3年3月に行われた各国公使の謁見時に、ロシュ公使以下の駐日外交官と共に、シャルル・シャノワーヌ首長、ジュール・ブリュネ砲兵中尉、レオン・デシャルム騎兵中尉が参列し、将軍慶喜に謁見しています。
 当時、陸軍はフランス、海軍はイギリスというのが世界の公論で、彼らはいずれも歩兵・砲兵・騎兵の三兵の世界最高水準の教育ができる精鋭の陸軍教師でした。
 フランス人教師による伝習は、慶応2年12月15日(1867年1月20日)から始まりました。
 当初は神奈川奉行所の太田陣屋をフランス陸軍軍事顧問団による伝習所に充てられ、座学や実習が行われましたが、シャノワーヌの要求により、5月には砲兵と騎兵が、9月には歩兵が、伝習場所を江戸に移し、環境に恵まれた場所で、より充実した演習が開始されました。

 また、小栗上野介の要請に応えて、彼が建設した関口大砲製造所において、ブリュネ砲兵中尉は同所で小銃や大砲の製造に取り掛かかりました。
 因みに、ブリュネはデッサンの心得があり、日本滞在中に多くのデッサンを残していますが(拙著に彼の絵を複数掲載しています)、その才能を伝習隊の服装に生かし、彼自身が描いたデザインによって制服が統一されました。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ブリュネのスケッチをもとに作成された堺事件の銅版画(1868年6月13日「Le Monde Illustré」第9面フルページで掲載された絵図、GALLICA/フランス国立図書館デジタル図書館より)

【幕府の崩壊と顧問団の解雇】

 ところが、ようやく伝習プログラムが軌道に乗り始めたばかりのフランス人教師による三兵伝習も、突如として政局が激変したため中断されることになりました。
 慶応3年10月14日、将軍慶喜は大政奉還を朝廷に奏上し、その2か月後の12月9日には、武力討幕派の薩摩藩や公家などの画策によって王政復古の大号令が発せられ、天皇のもとに新政府が成立し、翌日には徳川慶喜に辞官納地(官位と領地の剥奪)を迫りました。
 12月16日、慶喜は大坂城にイギリス・フランス・アメリカ・オランダ・プロイセン5か国の代表を招集し、徳川幕府の政権維持を宣言して、幕府が外交を継続することを宣言しましたが、政権はすでに天皇の政府に移り、幕府軍は鳥羽伏見の戦いで敗戦して、幕府は崩壊に至りました。

 慶応4年1月11日(1864年2月4日)、旗艦開陽丸で江戸に戻った徳川慶喜は新政府に恭順することを決意しますが、小栗上野介などの抗戦派と恭順派が二分して混乱を極めました。
 シャノワーヌ首長は慶喜を励まし、ブリュネ砲兵中尉は新政府軍討伐の作戦を立案して、慶喜の再起を促しました。しかし、慶喜はこれを拒み、寛永寺で謹慎しました。

 その最中の慶応4年2月15日(1868年3月8日)、堺においてフランス艦デュプレックス号のフランス人船員11人が、市中警固の土佐藩士20人によって殺害されるという事件が発生しました(堺事件)。とりわけロシュ公使は、頼りにしていた慶喜は恭順し、パークス公使の新政府支持が明確になった矢先の事件で怒り心頭に発し、到底許すことはできませんでした。各国からも政府に対する不満が噴出し、政府は23日に妙国寺において、20人の犯罪者の切腹による死刑を実施し、各国公館員にも検分させました。ところがデュプレックス号艦長の申し出により、殺害された11人に合わせて20人の犯罪者のうち11人の切腹で死刑は中断しました。

 徳川幕府との蜜月により少なからずフランスの国益に貢献していたロシュ公使も、日本国内を二分する混乱と新政府の樹立に懸念を抱いた本国政府は、ロシュ公使を帰国させることになります。

 
 
《ブリュネ砲兵大尉の箱館戦争》
 
砲兵大尉ジュール・ブリュネ
(Public domain, via Wikimedia Commons)
 
旧幕府軍艦開陽丸( 残花戸川安宅編、原書房発行「旧幕府」合本二第七号掲載写真)

【ブリュネ砲兵大尉の箱館戦争】

 ところで、国内が戦争状態にある中で、各国は局外中立の立場をとり、フランス人教師は横浜仏語伝習所に退避しました。幕府陸軍の伝習を行ったフランス人教師らは、新政府の動きを注意しつつ、幕府の復興を願って新政府軍と戦おうとする伝習生らの厚い期待の狭間で微妙な立場に置かれました。
 これに対して、新政府軍はフランス人教師の契約解除を通告します。そのため、訓練途中で帰国することになりました。しかし、教師の中には伝習生をサポートしようとして、新政府軍と戦うことを決断した人物がいました。それがジュール・ブリュネ砲兵大尉でした(彼はデシャルムと共に、7月の辞令で大尉に昇進していました)。

ブリュネは、幕府を脱走して新政府との戦いを選択した教え子の陸軍伝習生の熱い思いを見過ごすことができず、彼らとともに新政府軍と戦うことを決意し、ナポレオン皇帝と陸軍大臣宛てに書簡を送り、身分を捨てて日本に残留することを通知しました。フランス人教師の皇帝隊種馬掛のアンドレ・カズヌーヴもブリュネの心意気に賛同し、彼と行動を共にします。二人は和服に大小を差し、頭巾をかぶり、日本人に変装して、密かに品川沖に停泊中の開陽丸に乗り込み、旧幕府の海軍副総裁榎本武揚率いる旧幕府脱走軍に加わりました。
 その手はずを整えたのは、横浜仏語伝習所でフランス語を学び、通訳として陸軍伝習所でブリュネをサポートしていた砲兵伝習隊の田島正親(まさちか)でした。彼は顧問団が来日する以前から、ロシュ公使が開設した横浜仏語伝習所でフランス語やフランス兵制を学んでいました。

 榎本武揚は、路頭に迷う元徳川家臣約3000人を、蝦夷地開拓によって生計を立てさせようと立ち上がったのでした。彼は、旧幕府が大鑑製造のためにオランダに送った留学生の一人で、現地で造船を学びながら幕府が発注した軍艦の製造を見守り、完成した軍艦とともに帰国したばかりでした。軍艦の名は開陽丸で、幕府軍の旗艦となるのでした。
 榎本は開陽丸を含む幕府の軍監8隻を奪取し、艦隊を編成して仙台に向かい、奥羽越列藩同盟軍と合同して新政府軍と戦うことにしました。ところが、仙台ではすでに同盟は崩壊し、止むなく箱館に向かい、箱館奉行所を占領し、五稜郭を居城とします。
 ブリュネには、カズヌーヴだけではなく、その後合わせて10人のフランス人が彼を慕い、幕府脱走軍に加担しました。
 榎本武揚は軍をフランス式兵制に基づく組織に編成するとともに、選挙によって榎本武揚が総裁となり、フランス陸軍伝習所で伝習隊を率いていた大鳥圭介が陸軍奉行、元新撰組の土方歳三が陸軍奉行並を勤め、その配下を4つの地域に分け、4レジメン(連隊)を編成し、それぞれにフランス人教師配属して戦術の指揮に当たらせました。
 しかし、旗艦開陽丸が座礁して海戦が不利となり、圧倒的な戦力を有する政府軍に敵わす、五稜郭も陥落します。明治2年5月に榎本軍は降伏し、榎本軍とフランス人は東京に送られ、牢獄に監禁されました。

 

 ブリュネの処罰と叙勲】
 ブリュネの扱いについては、新政府とロシュ公使の後任である駐日フランス公使マキシム・ウートレーの間で協議されました。明治政府は“賊徒”ブリュネの犯罪はフランス政府の手落ちであるとして、厳しくウートレー公使を責め立てました。ウートレー公使はロシュ公使と徳川幕府との蜜月のような状況を極力避けて中立の立場を堅持していましたが、就任早々のブリュネ問題に腹立たしく思っていました。その上、日本政府から監督責任はフランス政府にあると指摘されて、交渉はもつれにもつれました。しかし結局、ブリュネを厳しく処罰するということで決着せざるを得ず、彼をフランスに送還しました。ところが、フランスでは彼を英雄として扱い、シャノワーヌとともに栄達を果たします。

 明治5年1月に榎本武揚や大鳥圭介らが赦免されると、徳川幕府が招聘したフランス陸軍軍事顧問団に対する評価はもちろんのこと、ブリュネの評価は見直され、日本政府はウートレー公使の後任であるベルトミー公使に、ブリュネの扱いについて謝罪するとともに、今後これを問題視しないことを通告しました。
 明治9年に外国人に対する叙勲の制度が施行されました。フランス陸軍軍事顧問団のフランス人教師にもこれが適用され、同11年には、ルボンやデシャルムなどの第二次フランス陸軍軍事顧問団の教師が叙勲を受けました。これについて、榎本武揚は第一次のフランス人教師らも、その恩恵を受けるべきだと主張しました。その甲斐あって、明治13年4月、明治政府は彼に勲四等旭日小綬章を授与します。この伺い書を提出したのは陸軍卿大山巌でしたが、伺書の中で彼の叙勲の理由について次のように説明しています。
 「ブリュネは、明治陸軍の士官学校卒業生などを、フランス国に留学させる時には、必ず彼がその便宜を図り、我陸軍の助けとなっている。それだけではなく、旧幕府における軍制改革のために招聘され、骨折りを惜しまず勉励に努め、伝習生を啓発した。今日の陸軍砲兵が完成したのは、ひとえに彼の努力によるものである。」

 同年3月、ブリュネの来日当初から箱館戦争に至るまで、かれに付き従っていた田島応親がフランス公使館付駐パリ駐在武官に就任しました。そして、田島は久しぶりにブリュネと再会を果たし、叙勲の場に立ち会いました。二人が抱き合う感動的な再会の場面が想像されます。

 因みに、この間のフランス公使館と新政府との間で活躍した人物がいました。フランス陸軍軍事顧問団の解散後、公使館に通訳として出仕していた元顧問団教師のデュ・ブスケでした。彼はその後新政府に雇われ、太政官の下で主に法律家として立法・行政・司法の専門家として新政府を支えることになります。彼は日本語で文書を作成するときに、自分の名前を「治部助」と記しています。

 なお、ブリュネについては、佐藤賢一著「ラ・ミッション 軍事顧問ブリュネ」で彼の活躍が描かれており、映画「ラストサムライ」のモデルとも言われています。

 
 
 
1867年パリ万国博覧会に徳川昭武を派遣
 
【徳川昭武の万国博覧会】 
 パリ万国博覧会は1867年4月1日に開会し、11月3日(慶応3年10月8日)に閉幕します。その間、徳川将軍の慶喜の弟の徳川昭武は、ナポレオン三世への使節としてフランスに派遣され、8回にわたって万国博覧会を視察しています。1日や2日では視察しきれない博覧会ではありましたが、昭武は西洋の近代産業の発展と世界各国の珍しい文物に興奮したようです。
 日本からの展示品とりわけ美術品は大好評で、7月1日(5月29日)に開催された褒賞授与式で、日本の出品物のうちの養蚕、漆器、手細工物の部門が最高の賞であるグラン・プリを授賞し、ナポレオン三世からグラン・プリ賞の64個のメダルのうちの1個を授与されました。
 これが後に巻き起こる「ジャポニズム」の先駆けとなったのでした。
 

1876年パリ万国博覧会会場鳥瞰図 
※右はセーヌ川、シャン・ド・マルスに会場が設けられた。円形の展示場に各国の展示ブースが割り当てられました。円形展示場の外側には各国館やイベント場が設けられました。(シャルル・フィショ作、Gallica/フランス国立図書館デジタル図書館掲載絵図)
 
徳川昭武の肖像画
1867年12月21日(慶応3年11月26日)「The Illustrated London News」紙掲載
 
 
1876年4月1日パリ万国博覧会開会式、皇帝ナポレオン三世と皇后の登場(1867年4月6日「Le Monde Illustré」紙掲載絵図、GALLICA/フランス国立図書館デジタル図書館より)
 
1867年パリ万国博覧会野外パビリオン、正面は中国館、その左奥に日本館が見える
(1867年5月11日「Le Monde Illustré」紙掲載絵図、GALLICA/フランス国立図書館デジタル図書館より)

【徳川慶喜の弟徳川昭武を使節として派遣】
 徳川幕府とロシュ公使の間で築き上げられた強固な関係を象徴するもうひとつのプロジェクトが、ナポレオン三世が開催する1867年パリ万国博覧会への使節派遣でした。
 ロシュ公使は1867年4月1日(慶応3年4月27日)に開催されるパリ万国博覧会の開会式に日本使節を出席させ、日本品を展示するよう幕府に提言し、パリ万国博覧会事務局からも出品展示を正式の案内書も届いていました。これに対して、幕府は、国内が「人心不折合」の状態に置かれていたため、パリ万国博覧会の重要性に気づかず、参加の決定が遅れたのでした。しかし、ロシュ公使から何度も勧誘され、ようやく重い腰を上げて参加を決定しました。

 ちょうど徳川慶喜の将軍宣下の前月である慶応2年11月に、慶喜は前水戸藩主徳川斉昭の18男で異母弟の松平民部太輔昭武(あきたけ)を、ナポレオン三世への使節として派遣することを決定しました。そして、慶喜は昭武にこの機会を利用して、パリで5か年間留学するよう命じました。その年も押し詰まった12月28日に、幕府は昭武に御三卿の清水家を相続させ、これ以後「徳川」を称することを許しました。

 慶応3年1月11日(1867年2月15日)、民部太輔徳川昭武一行を乗せたフランス郵船アルフェー号は錨を上げ、横浜を出港しました。
 ちょうど同じころ、外国に派遣された日本初の海外駐留公使として、幕府は向山隼人正一履(むこうやまはやとのかみかずふみ、のち黄村)を初代のフランス駐剳全権公使に任命し、昭武と共にパリに向かわせました。
 使節の随行者は二つの役割に分かれて随行しました。
 まず徳川昭武の傅役(ふやく、お守役)を山高石見守信離(のぶあきら)が勤め、清水家家臣で水戸藩の7人の武士を護衛役に、そして会計その他護衛以外の昭武に関わるすべての補佐役として渋沢栄一が付き添いました。

 一方、徳川幕府としてのフランスなど各国との外交や対外折衝については、外国奉行組頭の田辺太一以下、通訳方・翻訳方を含めて5人、小者3人が担当し、これに留学生2人が同行しました。田辺太一にとっては、横浜鎖港談判使節時に次いで二度目のヨーロッパ訪問となりました。彼は維新後、岩倉使節団にも随行しています。
 また旅行中の案内役として、フランツ・フォン・シーボルトの息子でイギリス駐日公使館の通訳官アレキサンダー・シーボルトが同行しています。彼は駐日イギリス公使のパークスの意向で同行しており、道中ひそかに彼らの行動を報告させていたのでした。

 慶応1年7月、幕府は外国事務執政老中水野和泉守(忠精)、酒井飛騨守(忠毗)、勘定奉行小栗上野介忠順、作事奉行兼外国奉行山口駿河守直毅、外国奉行菊池伊予守隆吉、目付小笠原刑部長功の6人をパリ博覧会事務取扱人に任命し、準備に当たらせました。ところが、参加決定の遅れから、展示品の収集に時間を要し、万国博覧会展示品の受け入れ期日のギリギリに到着するという事態に陥りました。
 慶応3年2月29日(1867年4月3日)、徳川幕府のパリ万国博覧会使節徳川昭武一行はフランスのマルセイユ港に到着し、3月7日にパリに到着しました。

 
《薩摩藩の「琉球王国」出品事件》
 

 徳川昭武一行は、パリに到着した早々に驚くべき情報に接しました。
 出席するはずの博覧会の開会式が2日前に終了していただけではなく、その開会式には何と、薩摩藩が「琉球国王」の使節として出席していたのです。そして、琉球国産物陳列場では徳川幕府が「日本国」として確保した区画とは別に、一区画を借り受けて「琉球王国」の名を表示し、島津家の家紋である「丸に十の字」の国旗をかかげて、産物の展示も終えていたのでした。さらにパリ万国博覧会が編さんしたカタログには「日本」の部とは別に「琉球公国」の部名で展示品が収載されていました。

 生麦事件でイギリスから激しく責められた薩摩藩が、薩英戦争後に一転してイギリスに接近し、家臣のイギリス留学を要請して許可を得ていたことはすでにご紹介しました。薩摩藩は正使新納刑部以下の遣英使節と留学生を密航させました。
 1865年10月15日(慶応1年8月26日)、薩摩藩遣英使節の新納と五代は、ベルギー出身のフランス人であるシャルル・ド・モンブランとの間で、貿易商社の設立や薩摩藩の産物の輸出などについての契約を結んでおり、その契約の中パリ万国博覧会への出品の一切を委託するとの約定も含まれていました。
 このモンブランとの約定に基づいて、薩摩藩はパリ万国博覧会使節を派遣し、徳川幕府の決定に従わず、幕府とは別に「琉球王国」の物産として薩摩藩の産物を展示したのでした。
 慶応2年11月10日(1866年12月16日)、薩摩藩のパリ万国博覧会使節の正使岩下佐次右衛門(方平)以下11人は、イギリス船インドール号に乗艦し、鹿児島港を出港しました。そして徳川昭武の使節団より2か月も早い慶応3年1月2日にパリに到着しています。その日の「ラ・リベルテ」紙には「琉球国王陛下の使節」と紹介されており、「琉球王国の使節」と名乗って日本国名を隠していたことが分かります。
  薩摩藩は、イギリスのパークス公使やアーネストサトウの指摘したとおり、徳川幕府は巨大ではあるが、日本国を代表する者ではなく、天皇が日本国を支配しているのだ、という考え方を、モンブランを広報担当として欧米各国に表明させようとしたものでした。

 幕府が展示品の収集をしている当時から、実は薩摩藩については問題が発生していました。
 幕府はすべての大名家にパリ万国博覧会に参加するよう奨励するとともに、展示品のリストを幕府に提出するよう指示していたのです。これに応えたのが薩摩藩と肥後藩で、肥後藩はすでに幕府に届けた上で早々に発送していましたが、薩摩藩は一部を除いてほとんどのリストの提出を拒み、無断で長崎からイギリス船に展示品を積載してフランスに輸送していました

 パリに到着した徳川昭武一行は直ちに、未だ完了していない万国博覧会の展示ブースを確認し、日本品の展示に追われる一方、パリに着任したばかりの向山全権公使と外国奉行組頭の田辺は「琉球王国」使節と名乗る薩摩藩の正使岩下佐次右衛門に面会し、展示品のリストの提出、日本国ブースでの展示、展示国名の変更、などを申し入れました。しかし岩下は「すべてをモンブランに任せているので彼と交渉してほしい」と逃げ口上を述べるだけでした。

 田辺太一は止むなくモンブランとの折衝を重ねることになりましたが、モンブランは要求を受け入れず、「政府」の解釈をめぐって激しい議論の末、幕府の意向に沿わない屈辱的な内容の協定書を取り交わさざるを得なかったのでした。国名は次のような表記となりました。

   Japon Gouverment de Taikoun 大君政府
   Japon Gouverment de Taischiou de Satsouma 薩摩太守政府

 この一件により、田辺は解任されて帰国させられ、向山は公使を罷免され、わざわざ日本から栗本安芸守(瀬兵衛、鯤、のち鋤雲)を後任として派遣することになります。 

 その後、モンブランは論文「ありのままの日本」を発表し、日本には大君だけではなく、その他にも天皇の下に同等の地位にある大名が大勢おり、言わば、それらの大名からなる連邦国家である、とする立場を明確に示しました。

 薩摩藩のパリ万国博覧会使節は、日本国の統治について鋭く批判したため、徳川昭武も向山全権公使も窮地に陥りましたが、その後の昭武の外交活動により、また薩摩藩使節の貿易会社設立の失敗によって、事なきを得たのでした。


向山隼人正一履
(ナダール撮影、GALLICA/フランス国立図書館デジタル図書館「 Ambassadeurs Japonais - France」掲載写真)
田辺太一(左)
(ナダール撮影、GALLICA/フランス国立図書館「 Ambassadeurs japonais - France」掲載写真)

シャルル・ド・モンブラン(「杉浦譲全集第二巻」掲載写真より)
 
《パリの徳川昭武》
 

1870年以前のパリ市内鳥瞰図(シャルル・フィショ作、GALLICA/フランス国立図書館デジタル図書館掲載絵図)。
左手前はシルク・デテ(劇場)、右はパレ・ド・ランストリ(第1回パリ万国博覧会会場、1867年の万国博覧会表彰式が行われた)、右手はセーヌ川、手前の橋はコンコルド橋、上流にノートルダム寺院、中央のコンコルド広場、その向こうがチュイルリー公園、その奥にナポレオン三世の居所チュイルリー宮殿。宮殿はパリ・コミューンにより焼失した。さらにその奥にルーブル宮殿(現代の美術館)がある。
この時期にはまだエッフェル塔は建っていません。1867年のパリ万国博覧会が開催されたのはライン川の右手です。
 
 
 

昭武が留学中に住んだ ペルゴレーズ街(Rue Pergolèse53番)の建物は今も存在する(グーグルマップのストリートビュー)
正面5階建て、各階四つの窓の部分の1階と2階が昭武の下宿、建物に面する左右の通りがペルゴレーズ街 
 

【徳川昭武の各国訪問~留学~帰国命令】
  パリ万国博覧会は1867年11月3日(慶応3年10月8日)に閉幕しますが、その間、徳川昭武は8回にわたって万国博覧会を視察しています。1日や2日では視察しきれない博覧会ではありましたが、昭武は西洋の近代産業の発展と世界各国の珍しい文物に興奮したようです。
 日本からの展示品とりわけ美術品は大好評で、7月1日(5月29日)に開催された褒賞授与式で、日本の出品物のうちの養蚕、漆器、手細工物の部門が最高の賞であるグラン・プリを授賞し、ナポレオン三世からグラン・プリ賞の64個のメダルのうちの1個を授与されました。
 これが後に巻き起こる「ジャポニズム」の先駆けとなったのでした。

 万国博覧会が終了して、徳川昭武の使節としての役割は終了しましたが、彼には兄の将軍慶喜から命じられた各国訪問と留学が控えていました。
 向山公使はイギリスを訪問しました。彼にはある目的がありました。それは各国公使が将軍を謁見した時に、他の国の公使が将軍慶喜を「マジェスティ」と呼称したのに対して、イギリスのパークス公使は「ハイネス」と呼称したことでした。そこで向山公使はスタンリー外務大臣に面会し、パークス公使に「マジェスティ」と称するよう指示していただきたい、と申し入れたのでした。しかしスタンリー外務大臣は「彼の発言はイギリス政府の発言だと思っていただきたい」と答えたのでした。

 外国奉行は帰国し、残されたのは昭武の身の回りの一切を世話する渋沢栄一と水戸の武士でした。
 昭武ら一行は、その後スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリス領マルタ島、イギリスの各国を訪問し、パリに腰を据えて学問に専念します。以後、渋沢栄一その他の従者を含めて、「洋服着用」と「脱刀」がパリ生活の原則となりました。
 徳川昭武の留学の教育係は陸軍士官レオポルド・ヴィレット中佐でした。彼が用意したカリキュラムは、語学、馬術、射撃、絵画、水泳、体操などで、それぞれに専門の教師を雇って日課を組みました。

 ところが、ようやく始まった留学生活も、母国の内乱と徳川幕府の崩壊で帰国を余儀なくされます。
 幕府は彼の留学を中止させるとともに、フランス6人、イギリス14人、オランダ3人、ロシア4人など滞欧中の幕府が派遣した留学生を帰国させました。
 昭武はもう一度フランス国内を巡見し、南仏ピアリッツに滞在中のナポレオン三世、ウジェニー皇后、皇太子に謁見し、感謝と別れの挨拶をしたあと、慶応4(明治1)年9月4日(1868年10月19日)、彼を乗せたフランス郵船ペリューズ号がマルセイユを出港し、11月3日に帰国しました。

 

【一般庶民の海外渡航と万国博覧会への参加】
 このパリ万国博覧会への参加を契機に、これまで幕府は公式使節以外のすべての海外渡航を禁止していましたが、日本人の海外渡航を許すことになりました。
 慶応2年4月7日(1866年5月21日)、幕府は学術修業および商業のためという名目による海外渡航を許可し、渡航免許証を交付することとし、幕臣も諸藩士も、そして百姓・町人までも、公然と海外に出かけることができるようになりました。
 これにより、薩摩藩の遣英使節および留学生は名前を隠して密航せざるを得ませんでしたが、パリ万国博覧会使節の渡航は公然と行われたわけです。

 この恩恵を受けた町人がいました。外国奉行が発行した第1号の渡航免許証は、アメリカ行きのパスポートを受けた神田相生町の浪五郎で、以下17人、合計18人(うち女性3人)が浪五郎一座でした。そして、37号の外国奉行支配塩島浅吉から50号の清水卯三郎までの14人がパリ万国博覧会関係者で、幕府4人と手代4人、出品物を収集した江戸商人清水卯三郎とその手代、そして、佐登(さと)・寿美(すみ)・加祢(かね)、という3人の柳橋松葉屋の芸者たちでした。3人の女性は卯三郎がパビリオンの一角に設(しつら)えた日本茶室でお茶をサービスし、パリの人々に大好評を博し、新聞紙上をにぎわしたのでした。

 
パリ万国博覧会の野外日本パビリオンの日本家屋で人気を集めた三人娘
(1867年9月28日「Le Monde Illustré」紙掲載絵図、GALLICA/フランス国立図書館デジタル図書館より)
 
 
 
扇で蝶々を操る日本の芸人を特集する記事
(1867年11月23日「Le Monde Illustré」紙掲載絵図、GALLICA/フランス国立図書館デジタル図書館より)
彼の名は渡航免許証第1号の浪五郎と思われる
 
 
 
 
第二次フランス陸軍軍事顧問団の招聘
 
大村益次郎の肖像画(国立国会図書館電子展示会「近代日本人の肖像」掲載写真)
 
 
 
 
 
 
 
 
(Copilot生成画像)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アンドレ・カズヌーヴ
(Public domain, via Wikimedia Commons)

【フランス式兵制を選択した陸軍創設の功労者大村益次郎】
 かくして、徳川幕府が招聘したフランス陸軍軍事顧問団による協力関係は壊滅し、フランス陸軍による明治陸軍の西洋化・近代化の芽は閉ざされたかに見えました。
 ところが、明治新政府は一旦見捨てたフランス陸軍軍事顧問団の派遣を、皮肉にも再度フランス政府に要請します。

 明治陸軍の創設に熱心に取り組んだのは、明治2年6月に初代兵部大輔に就任した大村益次郎でした。明治になっても、軍隊組織は相変わらず封建制度を残しており、各大名家所属のバラバラな軍隊組織が存在するだけで、天皇のもとの軍隊は薩長などの軍隊によるごく限られたものでした。そのような諸藩に属する軍隊組織を天皇の軍隊に統合することは緊急課題でした。そして何よりも、西洋式の近代的な軍隊の創設のためには外国に学ぶしかなく、天皇の軍隊をどの国の軍隊に倣って編成するべきか、そのためにどの国の言語を学ぶべきか、ということもまた重要な課題でした。

 この当時、諸藩では西洋兵式の採用が進んでいましたが、藩によってイギリス、フランス、ドイツオランダなど、その兵式はまちまちでした。
 大村益次郎は兵制統一のために、東北征討軍の解体と天皇直属の軍事力の保持が必要であると考えていました。また藩兵に限らず、徴兵による国民軍の創設を目指す建軍策を提言していました。さらに彼は、戦略や武器のみならず、兵士に対する幅広い教育を重要視するフランス式の兵制をモデルとした陸軍創設を目指していたのでした。彼は、徳川幕府が育成したフランス陸軍軍事顧問団において多数の伝習生が養成されており、言語の使用においても不自由のない者が多いことから、フランス陸軍から学ぶことを優先したのです。もっとも、明治新政府を支えたのはイギリス政府であり、イギリス陸軍から学ぶべきだとする勢力が政府の中枢部にはいたのですが、大村は自説による兵制の導入を強引に進めていきました。

 しかし、兵部大輔就任の僅か3か月後の明治2年9月に、急進的な彼を危険視する暴徒に襲撃され、その怪我が原因で11月に亡くなりました。

【第二次フランス陸軍軍事顧問団の来日】
 大村益次郎の遺志を継いだ兵部省のk後輩は、大方の反対を押し切って、フランス式兵制の採用に着手し、フランス人教師を募りました。そこで、活躍したのが日本側ではブリュネを支えた田島応親で、フランス人では幕末の顧問団教師で、その後明治政府に仕えた治部助ことデュ・ブスケでした。彼ら二人が奔走し、シャノワーヌやブリュネと連絡を取り合い、第二次フランス陸軍軍事顧問団の招聘が実現します。

 明治5年4月11日(1872年5月17日)、第二次フランス陸軍顧問団のシャルル・マルクリー首長以下教師16人が横浜港に到着しました。彼ら教師の選抜には、第一次顧問団のシャノワーヌ、ブリュネ、デシャルムが関わっていました。第一次顧問団員だったデシャルムは第二次の顧問団にも参加します。それにしても、何という因縁でしょう。

9月20日、明治天皇の謁見が幹部教師7人に許され、勅語を賜わりました。
  レオン・デシャルム騎兵大尉
  クロード・ジュルダン工兵大尉
  ジョルジュ・ルボン砲兵大尉
  アンドレ・エシュマン歩兵大尉
  アンリ・ペルサン歩兵大尉
  アルバート・オール歩兵中尉
 彼らはしばらくの間、顧問団の中心メンバーとして活躍しますが、その後明治13年に顧問団が解約されるまでの間に、彼らを含めた累計28人のフランス人教師が入れ代わりながら来日し、それぞれの専門分野を担当します。

 顧問団の教師の構成は、幕末の顧問団が三兵すなわち、歩兵・砲兵・騎兵に限ったものでしたが、これに工兵が重要な役割を担う兵制として加えられていました。さらに、その他兵器製造や軍馬の繁殖に至るまで、陸軍創設に必要な幅広い教育を実施しています。

 彼らが残した業績を振り返ると、伝習生に対する各教師による教育(座学・実学)だけではなく、ジョルジュ・ルボン砲兵大尉がフランスのサン・シール士官学校を模して編制された陸軍士官学校の創設と教師団による各専門科目別の教育、同じくルボンによる火工、鉄工、木工の三科目の兵器技術教育学科を伝習する諸工伝習所の創設と実践教育、ルボンらが実施した海岸防禦のための海岸測量調査と防禦策の提言築城・測量・地図作成、などが上げられます。いずれも新生日本陸軍における画期的な業績で、その功労は末永く評価されています。
 なお、作成された地図の中には、工兵大尉ルイ・クレットマンが作成指導した「下志津及周回邨落図」があります。近代的な技法によって四街道周辺地域が描かれたはじめての地図です。

【ナポレオン三世のアラビア馬とカズヌーヴ】
 第14代徳川将軍家茂は、西洋式陸軍創設のために、ナポレオン三世にフランス陸軍軍事顧問団の派遣を要請しました。この時、ナポレオン三世は、日本において軍馬を繁殖させるためにアラビア馬を徳川将軍に献上しました。牡馬11頭、牝馬15頭、合わせて26頭の雄大で見事なアラビア馬でした。26党のアラビア馬を連れてきたのは種馬飼育場付伍長のアンドレ・カズヌーヴでした。これを見た幕臣たちは、我も我もと騎乗を望み、カズヌーヴらのフランス人教師たちを困らせました。これらの馬は、あくまでもナポレオン三世が「日本で繁殖させるために」贈ったもので、乗馬用ではなかったのです。

 このアラビア馬はカズヌーヴに預けられ、下総国の小金原において牧士たちに繁殖教育を施しました。ところが戊辰戦争が始まり、十分な教育が行えないまま、幕府崩壊とともに、その試みもまた消滅し、戦乱の中でアラビア馬は行方知れずとなってしまいました。

 日本を離れていたカズヌーヴは、その後残してきたアラビア馬が心配になり、その所在を調査しなければならないと感じて、明治3年に再来日を果たし、「産馬意見書」と題する提言書を新政府に提出しました。これに目をとめた宮内省は、彼を馭者・調教師として雇いますが、陸軍も黙ってはおらず、太政官に申請して彼を調馬・厩馬術教師として転属させました。

 陸軍はようやく軍馬の確保・繁殖に本腰を入れ、彼を東北に派遣して、各地の牧場における繁殖の実態を調査させました。しかし、彼は箱館で負った重症の後遺症や、この過酷な調査旅行の無理がたたり、明治7年11月に福島県浪江村で死去しました。この浪江村は現在の福島県浪江町で、あの東日本大震災で東京電力福島第一原子力発電所の事故をまともに受けた地域です。

 カズヌーヴによって、陸軍は軍馬の繁殖を重視し、これまで騎兵の下にあった厩に関わる組織すなわち軍馬局が置くとともに、種馬の確保と繁殖の事業を開始しました。同時に騎兵育成もまた重視されるに至りました。

 
 
 
 
岩倉使節の米欧回覧
  
岩倉使節団とその使命
 

 明治4年11月12日(1871年12月23日)、右大臣岩倉具視を特命全権大使とし、参議木戸孝允、大蔵卿大久保利通、工部大輔伊藤博文、外務少輔山口尚芳の4人を副使とする視察団が横浜港を出発しました。岩倉使節団の随行者の中には、第二次遣欧使節や徳川昭武のパリ派遣に随行した外務少丞田辺太一、通訳として第二次遣欧使節団随行者だった塩田篤信(三郎)も含まれており、遣米使節に随行しブームを巻き起こしたトミーこと立石斧次郎も、長野桂次郎の名で随行しました。

 使命を帯びた使節団は総勢46人ですが、そのほかに大使・副使の随従者18人、留学生43人、合計107人の大使節団となりました。留学生の中に5人の少女がおり、そのうちの最年少だった8歳の津田梅がいたことはあまりにも有名です。

 大使・副使はいずれも薩長出身者ですが、随行者には旧幕府の海外渡航あるいは外交の経験者が多数含まれており、その存在感が目立ちます。呉越同舟という形である上に、旧幕府の随行員の多くは外国通であるのに対して、大使・副使(伊藤を除き)など薩長出身の政府中枢メンバーは国際経験のない者がほとんどでした。両者の間にはしばしば不協和音が発生しましたが、外国通の旧幕府出身者は大使・副使にとっても頼りになる存在だったのです

そもそも岩倉使節団の使命は3つありました。
 第1は、条約締結国を歴訪して、天皇の国書を各国の元首に捧呈し、天皇の贈物を届けること。
 第2は、条約改正協議期限間近のため、その延期も含めて改正打診の予備交渉を行うこと。
 第3は、欧米諸国の制度・産業・文化の調査・研究を行うこと。
 第1と第3は、明治政府がはじめて派遣することによる当然の使命ですが、主たる目的は条約改正の予備交渉でした。

 通商修好条約の改正に当たっては、両国政府のいずれか一方から、1872年7月4日(明治5年5月29日)の1年前にその意向を伝えなければなりませんでしたが、その期限が間近に迫っていました。そのため、この期限延長を申し出ることが岩倉使節団の最大の目的でした。

岩倉大使欧米派遣図(横浜湊)
(宮内庁宮内公文書館所蔵、識別番号74208「明治天皇御記附図稿本巻一」第27番掲載図)
 

頑固にちょんまげ姿の和装にこだわっていたが、シカゴで洋装に変えた岩倉具視
(1872年10月12日「The Illustrated London News」紙掲載絵図)
 

ユリシーズ・グラント大統領
(アメリカ合衆国議会図書館所蔵)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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【アメリカ訪問~条約改正延期交渉は決裂】
 明治4年12月6日(1872年1月15日)にサンフランシスコに到着し、翌日市長主催の大歓迎会に出席して、岩倉使節ははじめて「スピーチ」を行いました。そして、16日にセントラル・パシフィック鉄道の蒸気機関車に乗りました。ところが、ロッキー山脈の大雪被害によりソルトレイクシティで17日間足止めされ、シカゴを経由してワシントンに到着したのは、明治5年1月21日(1872年2月29日)でした。ワシントン駅では、ワシントン駐剳少弁務使の森有礼ら公使館吏が使節一行を出迎えました。
 この蒸気機関車による大陸横断の大旅行に、岩倉使節団員は蒸気機関車の威力と、広大なアメリカ大陸に大いに感動したのでした。

 明治5年1月25日(1872年3月4日)、岩倉使節はワシントンのホワイトハウスにおいて、アメリカ大統領ユリシーズ・グラントに謁見しました。その後、国務長官ハミルトン・フィッシュに面会し、会談を開始しました。初日の会談で使節は訪米目的を伝えると、国務長官は、使節との協議の結果は取り決めて相互に調印しなければならないが、使節の全権委任状には調印の権限を与えるとの記載がない、これでは公文書としての有効性は確保できず、議会で承認を受けることができない、と指摘されました。出だしから、明治新政府の外交団としては最悪の失態でした。
 ホテルに戻った使節は話し合いの結果、大久保と伊藤を帰国させ、調印権限を付与するとの委任状を取得して戻った二人を迎えて、改めて会談を再開しました。

 その後、フィッシュ国務長官との会談は、最後のお別れの挨拶を含めて12回に及びましたが、条約改正期限延期の合意はできないまま、会談は終了しました。大久保と伊藤の帰国というハプニングなどもあったため、アメリカ滞在は予定を大幅に超えて7か月にも及びました。
 明治5年6月22日(1872年7月27日)、岩倉使節団は蒸気機関車でワシントンを出発し、フィラデルフィア経由でニューヨークに到着し、当時世界最大のホテルと呼ばれたニューヨークのホテルSt. Nicholas Hotelで滞在しました。ニューヨークでは毎食牡蠣料理だったと久米邦武(久米邦武編、田中彰校注「特命全権大使米欧回覧実記」岩波書店)は記しています。
 一行は最後の訪問地であるボストンに移動し、7月3日、ボストン港で郵船オリンパス号に乗船してイギリスのリヴァプールに向かいました。

下関事件損害賠償問題】
 実は3つの使命とは別に、岩倉使節団はもう1つ重要な問題を解決しなければなりませんでした。
 それが、旧幕府が約束した下関事件賠償金返済問題でした。
 賠償金総額300万ドルの国別配分は、長州による直接砲撃を受けたアメリカ・フランス・オランダに各78万5千ドル、艦船被害がなかったイギリスには64万5千ドルでした。幕府はすでにその半額を支払っていたため、残り半額は明治政府が支払うことになっていました。
 明治2年4月22日、明治政府は支払期限を1872年5月15日(明治5年4月9日)まで延期したいと4か国に要請していました。
 ところが、この問題について、この後のイギリス・フランス・オランダ訪問においては、厳しい攻撃を受けましたが、アメリカ政府との会談では一度も触れられず、議事録にも記録がありません。

 結局、明治政府は明治7(1874)年に4か国に賠償金を支払いますが、アメリカだけは異なる事態になります。
 実は、岩倉大使がワシントンに到着する直前に、アメリカでは「賠償金は返還すべきである」という議論が巻き起こっており、議会でも審議されていました。理由は実際の損害よりもあまりにも多額過ぎるということでした。この返還不要の議論は賛否があり、議決に至るまでにかなりの時間を要しましたが、1883(明治16)年2月22日、上下両議院は大統領に日本に対して78万5千ドル87セントを返還する権利を与えたのでした。
 明治22(1889)年、外務大臣大隈重信は、アメリカからの返還金を、日本における本格的な港湾築造を目指す横浜港築港工事の資金に充当することを決定し、7月に着工、同27年3月に落成しました。当時の日本円にして約140万円程度で、第1期工事費234万円の60%を賄うことができました。

【久米邦武が嫌悪したレディファースト】
 ついでながら、「特命全権大使米欧回覧実記」の編者久米邦武は、「最も奇怪を覚えたるは男女の交際なり」として、次のようなことを記しています。
 「男女が船や車に乗る時は、男性が立って女性に席を譲り、女性は頭を下げることもなく席につく、女性が席に座ろうとした時は、全員起立して頭を下げる、男女同席の会合では、男性は振る舞いを慎み、声をひそめ、夫婦は必ず妻を立て、妻はそれを断ることはない、会合で女性が席を立てば、男性ははじめてリラックスできる、、、(中略)、、、東洋の教えは、女性は内を治め、表に出ることはない、男女の区別は自ずから決まっている、識者はよく考えた方が良い」
 久米邦武は儒学者であるが、とくに「西洋人が女性を尊ぶ風俗」にあからさまに不快感を表しています。ボストンを出航する船上で、イギリスに渡る夫に妻が堅く抱き合って接吻する姿に、彼は何事かと呆れています。そばに居た西洋通の杉山一誠が「彼らは公衆の中、殊に日本全権大使の前なので、念入りに小笠原流の接吻を行うて居る処だから、傍の人は敬意を表してこれを見てやるのが、却って礼義である」と言いました。苦々しい思いでこれを聞いた久米は「女を尚ぶ米国の文教はここで訖(おわ)った」と記しています。

 

 
 
バッキンガム宮殿
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コンコルド広場
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ロッテルダム
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鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルク
 
リギ鉄道
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歴帆途中で帰国を命じられた木戸孝允
(国立国会図書館電子展示会「近代日本人の肖像」掲載写真)
 
 
マルセイユ港
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【イギリス訪問】
 滞米中、着任したばかりのロンドン在留大弁務使寺島宗則から、ヴィクトリア女王が避暑地に異動されるので早くロンドンに来て欲しい、と何度も催促されていました。
 ロンドンに到着した使節団は、案の定、ヴィクトリア女王が避暑地に出た後で、謁見は叶いませんでした。
 イギリスにおける交渉の相手は、外務大臣グランヴィル卿と、岩倉使節の条約改正交渉に出席するために帰国していた日本在留公使ハリー・パークスでした。条約改正については、アメリカと打ち合わせたかのように、全く同じ回答で、交渉にはなりませんでした。あとは雑談となり、その中で外国人の日本国内における自由旅行を許可するよう要請されました。岩倉使節は、日本には未だに頑固で愚かな輩もいるので難しい、と答えました。
 そして、下関事件賠償金支払いについては、条約どおり支払うよう要請されました。

イギリスにおける交渉は終了し、使節一行は次のフランスを訪問しました。カレー港に到着すると、に中弁務使のフランス在留の鮫島尚信が出迎えており、フランス人の出迎え人の中に、徳川幕府が招聘したフランス陸軍軍事顧問団で首長を勤めたシャノワーヌがいました。彼は使節の滞在中の使節の接伴掛を勤めるのでした。

【フランス訪問】
 パリに到着した岩倉使節は11月23日(1872年12月23日)、岩倉大使は、使節の接伴掛シャノワーヌの案内で、ヴェルサイユの外務省を訪れ、外務大臣シャルル・ド・レミュザと会談しました。この会談には、駐日フランス公使マキシム・ウートレーが帰国して同席していました。
 条約改正については米英と同様で、条約どおりを要求されたほか、外国人の居住や旅行の規則緩和を要求され、とくに宗教の自由を保証するよう要求されました。そして下関事件賠償問題は条約どおり返済するよう要求されました。使節と外務大臣との会談はこの1回のみでした。
 明治5年11月26日(1872年12月26日)、岩倉使節はフランス大統領アドルフ・ティエールに謁見しました。

 因みに、日本政府から岩倉使節の下に連絡が入り、太陽暦を採用して、明治5年12月3日を明治6年1月1日とすることを知りました。12月は僅か2日で終ったのでした。

【オランダ訪問】
 オランダ政府の接伴役は元駐日公使のポルスブロックでした。
 明治6(1873)年2月25日、オランダ国王ウイレム三世に謁見しましたが、ポルスブロックが通訳を勤めてくれました。
 翌3月4日、ハーグ市内の外務省を訪問し、外務大臣ゲリーケ・ファン・ヘルヴィーネンと会談しましたが、条約改正については、これまでの条約で何の申し分もなく、改正は継続的な外交のためには良くないとし、逆に日本国内における商業の自由と開港場の増加を要求されました。
 また、下関事件賠償金支払期限延期について、ヘルヴィーネン外務大臣は、下関事件賠償金支払い延期は唐突であり、契約どおり支払うべきである、と指摘し、やはり英仏と同様の回答でした。

【その他の訪問国】
 岩倉使節は安政5か国条約の締結国以外にも、その後条約を締結して国交のある国の元首に謁見し、国書を捧呈するとともに、外務大臣などにも面会しています。

 フランスからベルギーの国境の町モンスのケヴィ駅に到着した時、ベルギーの国歌と日本の国歌が演奏されました。これは、これは、イギリスのエディンバラ公爵アルフレッド公が、明治2年7月に来日した時に、駐日イギリス公使館付軍楽隊長ジョン・ウイリアム・フェントンが作曲した、いわゆる「初代君が代」だと思われます(参考:国歌 君が代(フェントン作曲の日本での最初版) 日本吹奏楽発祥146年記念演奏会 航空自衛隊航空中央音楽隊)。
 そして、2月18日にはベルギー国王レオポルド二世に謁見しました。

 3月11日、ドイツ国皇帝ヴィルヘルム一世に謁見しました。15日に使節らは鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクに面会して、親しく話を聞くことができました。このことは一行には特別強い印象を与えたようでした。久米邦武は「特命全権大使米欧回覧実記」で次のように記しています。
 「方今、世界の各国みな親睦・礼儀を以て相交わるとはいえども、これ全く表面の名義にて、其陰私に於ては、強弱相凌ぎ、大小相侮る(あなどる)の情形なり。(中略)我国は、只国権を重んずるにより、各国互に自主し、対当の交わりをなし、相侵越せざる公正の域に住せんことを望むものなり。(中略)英仏諸国は海外に属地を貪り、物産を利し、其威力をほしいままにし、諸国みな其所為を憂苦すと。欧州親睦の交は未だ信をおくに足らず(中略)故に当時日本に於て、親睦相交るの国多しといえども、国権自主を重んずるゲルマンの如きは、其親睦中の最も親睦なる国なるべし」

明治政府は徳川幕府に倣って、陸軍をフランスに頼ることにしますが、やがてドイツに見習うことになります。迫力ある言葉で語ったビスマルクの言葉が、影響したのかもしれません。

 明治6(1873)年3月30日、岩倉使節はロシア帝国の首都サンクトペテルブルグに到着しました。そして翌4月1日、外務省に赴き、外務大臣ゴルチャコフと会談し、3日にはロシア皇帝アレクサンドル二世に謁見しました。しかし、条約改正については交渉というよりもあいさつ程度のものでした。
 なお、幕末にロシアに留学していた市川文吉がこの日辞令を受けて岩倉大使随行を命じられ、通訳を勤めました。彼は徳川昭武の帰国に合わせて帰国した滞露留学生と別れてロシアに残り、ロシア人女性と結婚し、一男をもうけていました。その後彼は帰国するのですが、波乱万丈の一生を過ごすことになります(詳細は拙著で)。

4月19日には、デンマーク国王クリスチャン九世とルイーズ王妃に謁見しました。

4月25日には、スエーデン国王オスカル二世に謁見しました。

 イタリアでは、中山譲治がベニス総領事に任命されて就任しており、ベニス、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、ポンペイ、ミラノなどを視察しました。
 そして、5月13日、イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世に謁見しています。

 オーストリアウィーンでは、ちょうどウィーン万国博覧会が開催されており、日本からは佐野常民オーストリア公使兼ウィーン万国博覧会事務副総裁(総裁は大隈重信)に任命されて着任していました。日本から多くの物品が出品されており、使節らも万国博覧会を視察しています。
 6月8日にはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世に謁見しています。


 1873年ウィーン万国博覧会会場全景図
(国立国会図書館電子展示会「博覧会 近代技術の展示場」掲載図)

 6月21日にはスイス連邦大統領ポール・セレソールに謁見しました。

 以上合わせて12か国を訪問し、元首に謁見した上で、各外務大臣とも面会しています。

 実は、ベルリン滞在中の明治6年3月19日に、1月19日付の太政大臣三条実美・参議大隈重信・同板垣退助連名の書翰で、政府内外の事務多端に付、副使の大久保利通と木戸孝允に帰国を命ずる、との通告を使節は受けていました。
 これについて、大久保はフランクフルト経由で帰国しましたが、木戸は不満を露わにして、歴訪予定の国を単独で旅行するというハプニングがありました。
 岩倉は使命も凡そ終了したため、使節団を縮小し、各省理事官および随行員に調査の終了を告げて帰国させました。

 明治6(1873)年7月20日、岩倉大使一行を乗せた郵船アウア号はマルセイユの港を出港しました。帰途に通過するスエズには、4年前の1869年11月にスエズ運河が開通していました。幕末の遣欧使節とは異なり、岩倉使節団はその恩恵に預かることができました。そして、明治6年9月13日に横浜に入港し帰国を遂げました。

 岩倉使節は、最大の使命である条約改正については全く成果がなく、逆に要求を突き付けられることばかりでした。しかし、天皇の国書を各国の元首に捧呈し、天皇の贈物を届けるという使命は、何とか果たすことができ、欧米諸国の制度・産業・文化の調査・研究を行うことはできました。
 というよりも、近代的な国政制度や産業の発展、さらにはあまりに異なる各国の文化に驚くばかりでした。もっとも、そのような経験はすでに徳川幕府の開国を推進した若者たちが経験していたことばかりであり、岩倉使節は遅ればせながら、それを後追いしたというのが実態でした。

 
 
 

「古文書が伝える江戸時代の四街道」から

 
 
江戸時代の四街道の村
  
16か村の地図、塗りつぶし部分、赤線内は現在の四街道市域(「千葉市史」掲載地図に加筆)
 旧家に残された古文書は領主支配の実態、村政と村民の状況、その他当時の郷土の人々の日常生活などを伝えてくれます。四街道市にも17000点の古文書が残されており、江戸時代から昭和に至る四街道の歴史を伝える多くの貴重な記録があります。その中には、江戸初期のものは少なく江戸後期すなわち19世紀のもので、領主で言えば、下総国佐倉藩主堀田正睦(まさよし)とその跡を継いだ四男の正倫(まさとも)の時代です。

 四街道市域は、古代から山梨郷と物部郷の管轄にあり、江戸時代にはすでに、亀崎村、物井村、内黒田(うちくろだ)村、栗山村、長岡村、鹿渡(ししわたし)村、和良比(わらび)村、小名木(おなぎ)村、山梨村、中野村、和田村、成山(なりやま)村、中台村、上野村、南波佐間(なばさま)村、吉岡村16か村が存在していました。これらの村は、年代は不明ですが、いずれもそれ以前に起立したと思われます。なお、これらの村名は、現在も小字名として残っています。

 延享3(1686)年に堀田家が佐倉藩主となり、四街道市域全体が佐倉藩堀田家の領地となり、以後幕末まで11万石の大名として佐倉城に居を構え、四街道市域を含む下総国の城付村6万石を領し、山形の4万石や関東の遠国領1万石を支配しました。とりわけ、江戸後期の藩主堀田正睦は藩政において善政を施し、二度にわたって幕閣に列し、二度目には老中首座を勤めて、日米修好通商条約調印に向けて、自らタウンゼント・ハリスと外交交渉に当たりました。江戸時代に老中では唯一の「外交」を勤めた人物と言われています。古文書は、そのような時代の四街道の村の様子を伝えています。
 
 
村の鎮守と檀那寺と信仰
 
鹿渡地区の香取神社
(大矢敏夫撮影)
 
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 江戸時代の村の心のよりどころとなったのは、村の鎮守である神社であり、檀那寺でした。
 四街道市域にある寺社はすべて16か村の鎮守や檀那寺であり、どのように小さな村にも、少なくとも1社1寺は存在しており、それ以上のところもあります。そしてそれらの寺社が今も氏子や檀家の心の支えとして守り続けられています。
 四街道市の古文書には、それらの寺社に関わる資料も多く残されています。その中で最も興味深いのは、小川三郎右衛門家文書(鹿渡地区の小川秀雄氏所蔵)で、香取神社で行われた嘉永5年の本尊御開帳の記録です。
 鹿渡村の村内の準備や近隣60か村への協力依頼などの準備段階から、開帳時の様子、参詣者数、灯明料・賽銭・札料・講金などに至るまで、詳細に記録されています。何よりも驚かされるのは、5日間の参詣期間のうち、多い日には1万人以上の参詣者が訪れていることでした。300石程度の村でさえこのような行事が行われたのですから、大きな村である物井村や山梨村などの村でも、同様の御開帳が行われたことと思われますが、記録は確認できません。

 信仰という意味では、江戸時代に村を離れて旅行することが認められたのは「神社仏閣参詣」だけでした。各村で「講」を組み、伊勢参りや富士参詣、100観音参詣などの記録が多くみられます。
 「道中日記」で最大のものは、長岡地区の井岡敬則家に残された、後に長岡村名主となる十助の「諸国神社仏閣道中日記」でしょう。伊勢参りのほか、西国三十三札所、四国八十八箇所、九州の太宰府、出雲大社や大山、天橋立、琵琶湖竹生島、善光寺、妙義山、榛名山をめぐる大旅行を成し遂げています。

 医療が未発達の江戸時代においては、信仰のみが頼りだったのです。
  
  
宗門改めと市域の人口
 

 江戸時代には幕府は切支丹(キリスト教)や日蓮宗不受不施派を禁じました。人びとはこれら以外のいずれかの宗派に属していることを証明するために、菩提寺を定めて檀家となることを義務付けられました。これが「寺請(てらうけ)制」です。この制度に基づき、幕府や大名は寺に対して檀家の調査を定期的に実施させました。これが「宗門人別改め」であり、それをまとめて領主に提出するのが「宗門人別帳」あるいは「宗門人別改帳」です。家別の石高、家族の名前、家主との関係、年齢、男女の区別、総人数、馬の数、などを記録し、領主に報告させました。

 それともうひとつ、領主が人別すなわち人口の調査を実施する狙いがありました。労働人口の把握です。領民に宿場の助郷や橋・道路普請などに人足を出すことを義務付けたので、15歳以上、60歳までの男が何人存在しているか、すなわち働き手となる男子が何人いるか、を把握する必要があったのです。従って江戸初期の宗門人別帳により、あるいは領主によっては、女性や子供は人数だけで、名前も年齢も記載されていない宗門人別帳もあります。これは女性蔑視でも何でもなく、労働の対象とならなかったためです。その後、江戸後期には宗門人別帳は人口統計的な側面をもつようになり、現在の戸籍簿の原型ともなっていきます。

 佐倉藩でも定期的に宗門改めを実施し、その原本となる宗門人別改めの控えとして、鹿渡地区の小川三郎右衛門家と内黒田地区のものが残されています。鹿渡村の宗門人別帳は現在の鹿渡地区の善光寺と、山梨地区の松源寺によって、また内黒田村のものは西光寺によって作成されています。

 これらの宗門人別帳から、当時の村の人口、個々の家の石高や家族数、家族の名前、家族構成、飼い馬の数などを知ることができます。

 鹿渡村や内黒田村の宗門人別帳に記載されている人口数と石高により拡大推計して、幕末の四街道の人口は約4000人、現在の4%程度だったのではないかと私は推測しています。また、少子化時代の現在と比べれば、貧しくはあっても、子供が多く賑やかに明るく暮らしていた家族の様子がうかがえます。また、2世代同居家族や、家督を継いだ兄の家に「厄介」として同居する家族など、封建的な家父長制の家族関係をうかがうことができます。
 
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江戸時代の村の組織
  
村方三役~名主・組頭・百姓代
 

村方三役~名主・組頭・百姓代
 江戸時代の村は、村全体を統括して村民を代表して村を取りまとめる名主(なぬし)、名主の補佐役となる組頭(くみがしら)、百姓の代表として名主を監視する百姓代(ひゃくしょうだい)という村方三役(村役人)によって村政が執り行われていました。名主は「庄屋」とも言いますが、これは西日本で主に使われた名称で、東日本では少ないようです。また「肝煎(きもいり)」と呼ばれることもありました。彼らは領主から順達されてくる村継廻状などによって、領主の御用をうけたまわり、これを村民に知らしめて、村役人としての勤めを果たしました。
 この名主という役職は、一般的に特定の家が代々相続するものと言われますが、必ずしもそうではなく、江戸後期には「入札」すなわち選挙によって選ばれ、領主の許しを受けて就任しています。と言っても、誰でも村役人になれるというわけではありません。相当の土地を所有して年貢を上納できる財産家であり、同時に村の有力者でなければなりませんでした。
 古文書には村方三役の変遷を伝えていますが、その多くの家でご子孫が代々相続され、伝統を守り続けられており、江戸時代と現在とのつながりを感じさせます。

五人組による連帯責任
 江戸時代の領主は、直接個々の村民に課された年貢をそれぞれ上納させるのではなく、村を単位として、村高に応じて課された年貢を上納させたのです。従って、たとえ、村民の中に家の働き手の問題や災害などによる影響によって収穫が確保できず、定められた石高に応じた年貢が納められなくなったとしても、村全体としてこれを補填し、定められた年貢を上納しなければなりませんでした。もちろん、大災害などによって、村全体としても定められた年貢の3割以上の損害が生じた場合には、告訴することによって年貢が軽減されることがありました。
 また年貢のみならず、さまざまな課役についても、村全体として負担しなければなりませんでした。
 このように、江戸時代の村は連帯責任により年貢の上納や課役の負担を義務付けられていました。これを「村請制(むらうけせい)」と言います。
 さらに村全体として負担する、といっても、村内に30軒、50軒、100軒と家数が多い村では、村内の不公平感や不満を引き起こしかねません。そこで、5人くらいの小単位の組合すなわち「五人組」を編成させ、その中で連帯責任をとらせることにして、年貢のみならず、犯罪の防止や村の治安維持を図らせました。そのような五人組の家の組み合わせや法律や道徳などの遵守すべき事項を記載した「五人組前書」などの古文書も発見されています。

(大矢敏夫作図)
  
 
四街道の村の年貢 
  

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 江戸時代は米遣い経済と言われるように、米が経済の根幹をなしており、領国の規模は領内で産出される米の生産高「石高(こくだか)」で表されました。領主は領民を農業に専念させ、米の増産を図り年貢を取り立てて領国の維持・発展を図ったのでした。
 幕府にとっても大名や旗本にとっても、米の生産の安定は年貢貢租を財源とする財政の重要な政策でした。
 年貢に関する説明は専門的な制度でもあり、古文書に頻出する用語も難しく、説明するにはかなりの紙数を要するので、詳細は拙著「古文書が伝える江戸時代の四街道」をご参照願います。
 四街道市域における年貢に関する古文書は、物井村、鹿渡村、長岡村の3か村のものしかなく、残りの13か村については確認することができません。
 しかし、この3か村の年貢関係資料、とくに年貢割付状(佐倉藩では免定)や年貢皆済目録がしっかり残されていますので、当時の佐倉藩の年貢政策を読み解くことができます。

 ここで、特筆すべきは、3か村の年貢関係資料を比較してみると、年貢の取り立て方の相違が見られ、収穫に対して上納すべき年貢の割合、すなわち貢租率も異なっていることです。
 これは私の推測ではありますが、江戸時代の初期の領主が村によって異なる旗本の知行所であり、それぞれの旗本が定めた年貢制度と貢租率が、結局、幕末まで引き継がれ、これについて代々の領主が敢えて変更しなかったためではないかと考えています。おそらくこのような状況は他の地域にもあったのではないかと思われます。

 これを受け継いだ明治新政府は財政の安定確率のために地租を採用します。年度によって収穫が変動するという年貢の問題もさることながら、村によって、地域によって異なる制度を継続するわけにはいかなかったのです。そこで、明治5年に地租制度を施行し、土地に対する税制に改正されるわけですが、それぞれの地価の算定や地積の丈量(測量)に時間を要し、さらに税率の決定に対する反対運動などもあって、実施は大幅に遅mあした。
 その間の年貢については、明治6年に千葉県令が発給した「租税割賦帳」は、元禄1(1688)年の「年貢割付状」とほとんど変わりません。「米」が「円」に換算されているものの、算出根拠は幕末のものと変わらず、従って納め高もほぼ同額でした。
 四街道市域の村が地租を納めることになるのは明治11年度からとなりました。

 
 
 
共同体としてのさまざまな村組合 
  
 
  村請制に基づいて、土地を守り、領主に年貢を納める義務を負った江戸時代の村は、それぞれが孤立した状態にあったわけではなく、周辺の村々とのさまざまな形態の共同体として、その安定的な存続を維持していました。それが複数の村による「組合」です。以下では、そのいくつかの組合をご紹介します。
 
関東取締出役(俗名「八州廻り」)と改革組合村
 

 土井利勝が佐倉藩主となって以後、延享3年に堀田家が佐倉藩主となるまでの四街道市域においては、16の村のほとんどが異なる旗本知行所となっていました。
 このような状況は、下総国のみならず、関東一帯で特徴的に見られた状況でした。
 すなわち、江戸時代の関東地方は、勘定奉行所管轄で「御料」あるいは「天領」と呼ばれる幕府直轄領、1万石以上の大名が支配する「御領分」すなわち藩領、そして幕府の家臣である多数の旗本に宛がわれた知行所がモザイク模様に錯綜していました。

 しかしながら、このような支配違いの複雑な関東の状況は、幕府による関東一帯の治安維持においては取締上の欠陥を抱えていました。幕府後期になると、関東一帯に無宿者や無法者など悪党が跋扈し、地域の治安を乱しました。支配違いの領地を股にかけて悪事を繰り広げる悪党の捕縛のために、文化2(1805)年6月に設置された「関東取締出役」が設置されました。当初は勘定奉行の手附・手代の中から8人程度の関東取締出役が任命され、交代で関八州全体を巡察しました。これが「八週廻り」の語源です。

 ただ、僅か8人で関八州を取り締まることは容易でないため増員されましたが、文政10(1827)年2月に改革組合」(「寄場組合」とも)を編成しました。すなわち、その総代となる村を「寄場村」とし、組合村々を取りまとめさせ、各村から人馬を差し出させて、関東取締出役の廻村や悪党捕縛をサポートさせました。そして、関東取締出役が必要とする荷物の運送、悪党の捕縛の補助、捕縛した悪党の一時的な拘留と江戸への移送、その他関東取締出役のためのさまざまな人馬の差出などを義務付けたのでした。さらに、寄場組合から「道案内」を雇い、悪党の探索や捕縛の補助を手伝わせたのです。

 四街道市域周辺の改革組合村については、北と南に分かれ、北は33か村で編成された臼井村寄場組合に属し、四街道市域では、内黒田村、栗山村、長岡村、物井村、亀崎村の5か村が含まれており、南は63か村で編成された馬渡村寄場組合に属し、成山村、中台村、中野村、和田村、南波佐間村、上野村、小名木村、和良比村、鹿渡村、山梨村、吉岡村の11か村が含まれていました。
 四街道市域の道案内には、亀崎村の道案内が馬渡村改革組合に所属する道案内の「会主」すなわち代表を勤めており、16か村の中にも道案内を勤めた人物が複数存在していたことが分かっています。

 
 
佐倉藩が編成した五郷組合
 

  江戸時代の領主にとって、年貢収納は最大の権利であり、藩政特に財政の要でした。同時に、領内の統治と治安維持もまた重要な課題でした。
 佐倉藩もそのような目的から領内の取り締まりの組織・機能に留意していましたが、その一環として、複数の村による組合すなわち「五郷組合」を編成し、組合としての統制・自治の体制を整えていました。
 五郷組合は、文字通り5か村程度の規模で編成されましたが、四街道市域周辺を見ると、古文書で確認できるものとしては、弘化4年10月の資料によって、次のように編成されていたことが分かります。
・山梨村、鹿渡村、和良比村、小名木村、上野村(以上5か村はすべて四街道市域)
・南波佐間村、中台村、中野村、和田村、成山村(以上5か村はすべて四街道市域)
・亀崎村、物井村、長岡村、栗山村の四街道市域の4か村のほか、
 佐倉市域の角来村、江原新田村、飯重村、羽鳥村、野田村、飯郷村、生谷村(合計11か村)

 佐倉藩はこれらの五郷組合を単位として、さまざまな御用を申し付けました。
 四街道市域で発見された古文書から、それらの実態が浮き彫りになっています。

 
 
さまざまな組合~村ネットワーク
 
 改革組合村や助郷組合などのように、江戸時代の村は単独で領主の御用を勤めるだけではなく、近村と共同して、徳川幕府や佐倉藩の御用を勤めていました。このような共同体はほかにもありました。
 
助郷組合
 佐倉城と江戸を結ぶ佐倉道(江戸道とも言う)は、佐倉藩主である堀田家はもちろんのこと、利根川筋や九十九里筋の大名家の参勤交代の通行道でもありました。その街道沿いには、臼井、大和田、船橋、八幡などの宿場があり、それぞれに「助郷組合」が編成され、大名家の御用に応じて、各宿場の問屋から近隣の村々に人足や馬が割り当てられました。通常は助郷村が定められていましたが、それだけでは間に合わない場合には、「定助郷」や、さらに広域の「大助郷」(加助郷)に指定された村にも割り当てられたのでした。

 臼井宿の助郷は、佐倉道の北側の地域で編成されている印西村助郷組合19か村と、南側の地域の村々で編成されている馬渡村助郷組合14か村が支えていました。四街道市域の村は助郷村ではありませんが、定助郷や大助郷として、馬渡村助郷組合から人馬の差出を要請されていました。

御鷹組合
 御鷹狩と言えば、徳川家康が慶応19年1月に御成街道を築造して、東金で実施した御鷹狩を想像します。確かに家康は御鷹狩を好み、江戸近辺でしばしば御鷹狩を行っています。家康が将軍在任中に江戸を離れて鷹狩をしたのは、この東金での御鷹狩くらいのもので、特別な御鷹狩でしたが、真の狙いは江戸開幕間もない不安定な政情において、安房の里見氏や常陸の佐竹氏を牽制するためだったとも言われています。それはともかくとして、東金方面での御鷹狩には家康亡き後、秀忠、家光も御成街道を通っています。これに伴い、東金地域には数百にのぼる村々が御鷹狩組合を編成し、将軍の御鷹狩を支えました。
 その後、御鷹狩は5代将軍綱吉による「生類憐みの令」により中断しますが、享保1年8月に8代将軍吉宗が復活させました。吉宗は江戸十里四方を「御留場」として、数か所の御鷹場(御拳場)を設けましたが、それ以外の上総・下総の地域にも、御鷹匠が御鷹の訓練や御鷹の餌となる「上げ鳥」すなわち小鳥を確保するための「御捉飼場(おとらえかいば)」が散在していました。

 四街道周辺の市域、すなわち四街道市や佐倉市や千葉市の村にも「御鷹組合」が編成されて、御捉飼場における御鷹匠の「上げ鳥」の捕獲に人馬の差出を命じられていました。
 四街道市域の現在の51号線沿いの成山、中台、南波佐間、和田、吉岡にまたがる地域に「笹目沢」という小字があります。ここに御鷹匠が来村し、周辺村々に人馬の差出を命じて「上げ鳥雲雀」を捕獲していました。小川三郎右衛門家文書にはこのような御鷹に関する御用についての記録が残っています。

 
 
用水組合】
 江戸時代において、百姓にとって米作りは生活の糧であり、稲作のための用水の確保は最大の課題でした。幕府や大名にとっても、年貢は財政を支える基盤であり、用水確保や治水は重要な政策課題でした。一方、用水の問題はときには近隣の村との争いの種ともなりました。
 領村における安定的な米作りのためには、用水の確保は領主にとっても見過ごしにできません。そこで、領主の仲立ちにより、隣村同士で用水の管理を行いながら、農業の安定を図ろうとしました。近隣の村々で河川を共同管理し、土手を築き、堰を守り、用水を確保するための共同体が形成されました。
 四街道市域に小名木川という小河川があります。佐倉藩は鹿渡村、長岡村、物井村、羽鳥村の4か村を共同させ、取水堰、水門、樋などを築造し、補修するなど、用水のの維持管理を藩の事業として行っていたことが小川三郎右衛門家文書によって明らかになっています。
 

小名木川流域と用水堰普請の範囲
 濃い青線が用水堰普請地域、但し、物井村以北の亀崎村・羽鳥村の水域は含んでいない。 (明治15年4月陸軍参謀本部陸地測量部作成フランス式彩色地図「山梨村・和良比村」に加筆)
 
 
四街道の子供も種痘を受けた 
  

 江戸時代には、麻疹、コレラ、その他、治療法がなく死を待つだけの恐ろしい病気がいくつかありましたが、疱瘡もそのひとつでした。疱瘡(天然痘)はウイルスによって感染する伝染病で、医学界で痘瘡と呼ばれ、強い感染力と高い死亡率、また、命を取り留めても顔や体に跡が残ることから、古くから恐れられていました。
 そこでこのような石塔や祠を建てて、病気にかからないように疱瘡神に祈ったのでした。四街道市域には神社の境内などに疱瘡神を祀っているところが複数みられます。

 天保7(1836)年10月、佐倉藩主堀田正篤(のち正睦)は旧来の藩学問所である温故堂を移転拡充して、聖廟や寄宿坊などを備えた総合大学成徳書院を設立しました。さらに、天保14(1843)年、長崎でオランダ医学を学んだ蘭方医佐藤泰然を招聘し、藩内に順天堂を開設して、佐倉を西の医学先進地である長崎に匹敵する東の先進地としました。
 佐藤泰然は種痘法の研究と経験を積み重ねていましたが、これをまず佐倉藩江戸屋敷で種痘を実施しました。さらに、嘉永2(1850)年12月に、佐倉藩医学所は「牛痘による種痘法」を発布し、子育御役所は領民に「種痘諭文(さとしふみ)」を発して、翌3年2月から領内百姓町人に実施要領等趣意書を通知しました。そして、嘉永4(1851)年2月に佐倉医学所は「種痘児養生法」を領民に配布しました。

 しかし、当初は領民が種痘を嫌がり、なかなか普及しませんでした。小川三郎右衛門家文書の「御用日記帳」にはその様子が記録されています。
 嘉永6(1853)年3月から医師2名が領内を廻村して、子供の人別を提出させ、全員に種痘を受けさせることにしました。
 御用日記帳にはその時の様子が記録されています。たとえば、嘉永4年閏2月には医師が物井村と小名木村に廻村し、すでに種痘を植えた周辺村々の子供を集めてかさぶたを点検しています。また、安政1(1854)年6月19日には、栗山村に廻村し、物井、長岡、鹿渡、小名木、和良比、吉岡などの各村に対して、子供の名前帳を持参の上、栗山村へ子供を連れて来るように命じており、23日には物井村にも同様に命じています。ところが、やはり子供たちがなかなか集まらないので、どうなっているのかと督促しています。
 村民の多くは、疱瘡の恐怖におびえながらも、我が子に種痘を施すことに不安を覚えていました。種痘の普及を積極的に推進しようとする佐倉藩の配慮も、なかなか思いどおりには行かなかったのです。
 やがて種痘が定着するようになって、希望者を医学所に集めて受けさせる方式に変わっていきます。
 佐倉藩は先進的な予防法を早期に領民が享受できるよう努力していたことが分かります。

(ChatGPT生成画像)
 
 
佐倉藩の御用を伝える日記帳「御用日記帳」
  

 佐倉藩は領村に対してさまざまな御用を命じますが、それらの御用を記録した古文書があります。名主が「御用日記帳」「御用留」などと名付けて作成されたものです。
 佐倉藩の郡方奉行所・山方奉行所などから、村には多くの御用が申し付けられますが、それらの御用は「御用状」と呼ばれる文書で通知されました。そして、特別の場合を除いて、そのほとんどは「村継廻状」として、五郷組合、寄場組合、御鷹組合などの単位で、またその他必要に応じて複数の村に順達されました。村継廻状は該当の村々に順達したあと、最後の留村から返却するように義務付けられました。そのため、受け取った村では、ゆっくり読んでいる暇はなく、御用を果たすためにすばやく御用状の内容を記録に残し、次の村に順達しなければなりません。それが「御用日記帳」です。

 重要な触書や緊急の御用状などの場合には、「刻付廻状」と呼ばれる御用状もあり、受け取った村の名主は、送付先の村の名前、到着時刻、次の村への順達時刻とその宛先の村名、などを別紙の「刻付請印帳」に書き認め、触書や御用状と共に次の村に順達しなければなりません。

 これまでご説明してきましたが、四街道市にも鹿渡地区の小川三郎右衛門家に幕末の御用日記帳が残されています。この御用日記帳には、佐倉藩からの御用状だけではなく、関東取締出役や寄場村や五郷組合からの御用状も記録されています。
 小川家の「御用日記帳」に記録されている「御用」で最も多いのは、人馬の差出でした。殿様の参勤交代などにおける助郷御用、関東取締出役の御用、御鷹匠の御用、関東取締出役の御用などが記録されています。町打場の御用では、町打場における砲術方への給茶、町打実施時における往来留、砲弾の球拾い、佐倉と町打場の間の荷物の運搬などの御用が記録されています。
 小川家の「御用日記帳」は、徳川幕府や佐倉藩が領民に課したさまざまな御用を記録した貴重な資料ですが、詳細は拙著「古文書が伝える江戸時代の四街道」でお読みください。

(ChatGPT生成画像)

 
 
 
 
 
 
 

著者プロフィール

 

 昭和15(1940)年5月 大阪市生まれ
 昭和38(1963)年3月 神戸大学経営学部卒業
 同年4月、中外製薬(株)に入社。その後、業務部長、経営企画室長などを経て、常勤監査役を一期3年勤め、40年の会社勤めに終止符を打った。仕事第一の典型的な昭和の会社人間。
 歴史小説ファンではあるが、歴史学の学術経験は皆無ながら、終の棲家となった町の旧家の古文書の整理に携わった。残り僅かな人生を、“やれることを、やれるうちに、やれるだけ、やる”の精神で歴史調査・研究・執筆を楽しんでいる。
 元四街道市文化財審議委員、元四街道市史編さん協力員

(著作)
 「『万力村の御狩人足道中日記』を読む」
                                         (「房総の郷土史」第36号)
 「井岡家御鹿狩文書を読む」(「四街道の歴史」第5号)
 「五の手揃所・細見所の位置の推定」(同第6号)
 「諸国神社仏閣道中日記を読む」(同第7号)
 「井岡家文書が伝える四街道の歴史」(同第8号)
 「“軍郷四街道”の真相に迫る(1)」(同第10号)
 「“軍郷四街道”の真相に迫る(2)」(同第11号)
 「佐倉藩の御用状を読み解く」(同第12号)
 「徳川将軍の小金原御鹿狩」(デザインエッグ株式会社発行)
 「西洋との遭遇
       幕末・維新アナザーヒストリー 」上下巻
             (デザインエッグ株式会社発行)
 「ルボン山と町打場の物語
      佐倉藩の幕末・維新と“軍郷四街道”」
             (デザインエッグ株式会社発行)

四街道市内小名木川周辺の野鳥
(大矢敏夫撮影)
ホオジロ(千葉県の県鳥)のソプラノが響き渡ります
翡翠(カワセミ)が小魚を狙っています
 

古文書との出会いから書籍の出版へ

 平成14(2002)年6月、40年磨き上げた会社人間が、もう仕事しなくていいよと、社会に放り出されました。何の取り得もない63歳の老人が、これから先、仕事以外にできることなどあるわけがありません。あれから23年が経過しました。現役時代に通勤電車の中で藤沢周平の小説などを読みふけったことはありましたが、学術的な知識も経験もありません。しかし予てからの思いもあり、江戸時代や明治時代の歴史に興味を抱き、3年かけて古文書の解読に挑戦しました。そのころ、長屋門や土蔵、神社やお寺が建ち並び、庚申塔や馬頭観音などの石塔が道端にたたずんでいる古道を、愛犬と散歩することを早朝の日課にしていました。

 ある日、私は長屋門のお宅の門前にたたずんでいると、「何かご用ですか」とご主人に声をかけられました。突然のことで、「立派な長屋門ですね」と答えるのが精いっぱいでしたが、勇気を出して「あそこに見える土蔵には古文書が保存されているのでしょうか」と質問してみました。すると、「ありますよ、お見せしましょうか」とお言葉が返ってきました。思いもかけない事態に驚きながら、母屋に導かれ、応接間に通されました。次から次へと、横帳、縦帳、状ものなどの古文書が大きなテーブルに広げられました。あまりにも思いがけない展開に、貴重な古文書を前にして、恥ずかしながら、手が震えて心ここにあらず、落ち着いて読める状態ではなくなりました。
 家に戻った私は、これから成すべきことはこれだと直感しました。翌週、四街道市役所の文化財担当の方を訪ね、厚かましくも、私をあの古文書整理に関わらせてもらえないか、とお願いしました。突然現れた「どこの馬の骨」とも知れない老人に、貴重な古文書の整理を任せられるはずがありません。そこで、市の文化財である井岡家御鹿狩文書を解読するとともに、国立公文書館や千葉県その他で保存されている多数の小金原御鹿狩関連資料を調査して、その成果を論文にまとめ、教育委員会に提出しました。合わせて、市民有志によって古文書の整理を実施するための制度の設置を提案したのでした。
 熱心にお願いした甲斐あって、平成19(2007)年10月23日、私の夢が実現し、市民が市内旧家の古文書の整理・調査に携わる市史編さん協力員制度が発足しました。これが古文書に取り組む始まりでした。以後約10年にわたり、仲間と共に1万7千点の古文書の整理を成し遂げることになりました。

 さらに、それからの10年、それらの古文書の解読とその背景となる歴史の調査に費やしました。
 そして、令和2(2020)年には井岡家御鹿狩文書の解読をきっかけに、嘉永2年の小金原御鹿狩の全貌をまとめ、80歳にして“処女作”「徳川将軍の小金原御鹿狩」を自費出版しました。本書について、同じ年に開催された松戸市立博物館主催の「松戸と徳川将軍の御鹿狩」展では、講師の方々から本書をご紹介いただきました。また、「利根川文化研究44」には、川名禎先生の身に余る書評を頂きました。
 3年後の令和5(2023)年には第2作目の「西洋との遭遇 幕末・維新アナザーヒストリー上下巻」を出版しました。本書は、郷土の史跡「ルボン山」とその築造者フランス人ジョルジュ・ルボンの来日の背景から、日本の開国を成し遂げた人々と幕末・維新の外交を読み解いたものとなりました。
 翌令和6(2024)年には、第3作目の「ルボン山と町打場の物語」を出版しました。
 私は仲間と共に整理してきた古文書1万7千点がそのまま埋もれてしまうのを懸念し、本年すなわち令和7(2025)年9月には、四街道市の江戸時代の歴史を後世に伝え残したいと考えて、第4作目の「古文書が伝える江戸時代の四街道」を出版しました。

 これらの5冊はいずれも郷土の四街道市に関わるものばかりですが、第2作目の「西洋との遭遇 幕末・維新アナザーヒストリー」は、題名のとおり、これまであまり取り上げられなかった幕末と維新の「開国」の背景を「外交」という側面からとらえたものです。そのきっかけは「ルボン山」でした。なぜフランス人がこの辺鄙な原野にやってくることになったのか、なぜアメリカ人やイギリス人ではなく、フランス人だったのか、なぜ日本はフランスと交流することになったのか、を調べていくうちに、薩摩や長州の妨害を受けながら、西洋と遭遇した徳川幕府の若き侍たちが、開国に向けて突き進んで行った歴史が見えてきました。
 そのフランス陸軍軍事顧問団が明治陸軍の招聘で再び来日しましたが、その一員にジョルジュ・ルボンがいました。
 四街道には、そのような幕末・維新の歴史の流れを汲む町であること、フランスとのささやかな“赤い糸”により結ばれていることに気が付いたのでした。

 永い間この地で生活を営まれてきた人々と、遥か海の彼方からやってきて足跡を残した外国人が交錯するこの地の歴史に思いを致し、今を、これからを、この郷土で生きる人々に伝え残したいと思う次第です。

 明治5年に来日したフランス陸軍軍事顧問団の砲兵大尉ジョルジュ・ルボンは、山県有朋陸軍少輔の命により、元佐倉藩の下志津原町打場を近代的なフランス式大砲演習場に改築しました。その時ルボンは、南端の砲弾落下地点近くに射垜(大土手)を築き、その西端に「小山」を築きました。
 明治19年4月、陸軍は大砲演習場の北端に砲兵射的学校を開校しますが、同27年12月に総武線四ツ街道停車場が開業すると、明治30年に校名を野戦砲兵射撃学校と改称して移転すると、これがきっかけで周辺に町場が形成されます。
 
 明治天皇の大喪式典にフランス大統領代表者として出席したルボンは、懐かしき四街道の地を踏み、彼自身が築いた「小山」の頂上で若き日の思い出に浸っていました。すると、側にいた陸軍野戦砲兵射撃学校校長の河北大佐が、「ルボン山」と記された大きな木標を建てました。これを見たルボン将軍は感動して、河北大佐と固い握手を交わしました。これが「ルボン山」命名の瞬間です。
 上の地図は明治15年4月に陸軍参謀本部陸地測量部が作製したフランス式彩色地図「千葉県下総国印旛郡山梨村和良比村」の一部ですが、これに加筆して、後に四街道の名称発祥地である四つ角とルボン山および現在の四街道駅の位置を示したものです。
 
 
(Copilotによる生成画像)
 
「千葉日報」に掲載していただきました
 
 
 
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