古文書を読み解き、美しい歴史の本にしました |
徳川家康が全国制覇を成し遂げ、慶長8(1603)年に江戸幕府を開きました。戦争に明け暮れた武士たちの生活は一変し、全国を統治する行政官として働けるよう、家康は戦国武士に文武両道を奨励しました。これに伴って、武士の生活には文字を読み書きする能力が求められ、主君と臣下の間や武士と武士の間さらには領民との間で交わされる文書が爆発的に増加しました。読み書きと文書交換の習慣は制度として百姓・町人にも広がり、これとともに、公家や武士のみならず江戸時代の日本人の識字能力は世界最高水準にあったと言われています。 令和7(2025)年12月 著者 大矢敏夫 拝 ※「千葉日報」に掲載していただきました!(切り抜き)(ここを左クリックすると該当ページに移動します) |
出版情報 |
| 私がこれまで出版してまいり案した著書は以下のとおりの4作品(5冊)です。 |
2025年9月29日 「古文書が伝える江戸時代の四街道」出版 2024年7月 1日 「ルボン山と町打場の物語 佐倉藩の幕末・維新と″軍郷四街道”」出版 2023年3月 6日 「西洋との遭遇 幕末・維新アナザーヒストリー 下巻」出版 2023年2月27日 「西洋との遭遇 幕末・維新アナザーヒストリー 上巻」出版 2020年4月 7日 「徳川将軍の小金原御鹿狩」出版 |
| 著書の出版に当たって、私が最も重視したのは、多数の一次資料によって「歴史の事実」を詳しく解説し、また著名な研究者による信頼度の高い知見に裏付けられたものにすることでした。拙著では該当箇所には必ず引用資料を明記しており、拙著の末尾には引用資料を列記しています。そのため、拙著は専門書のような堅苦しいイメージを持たれる方もいらっしゃるかもしれません。 もうひとつのこだわりがあります。拙著では歴史の事実を具体的にイメージできるように、貴重な絵図や写真、とくにカラーの絵図を多数掲載するようにしています。これには、図録のような「美しい本」にする狙いも含んでいます。また、分析した結果を詳細に解説するために、自ら作成した図や表を多く挿入しています。 そのようなわけで、拙著は一般的な(写真や絵図の無い、少ない)書籍と比べれば、少し高価なものとなりますが、手にすると美しく、ずっしりと充実した内容のものにしています、必ずご満足いただけると思います。歴史を学びたい方、江戸時代や明治時代に興味のある方、とりわけ四街道市周辺の皆様にとっては、いずれも「必読の書」です。 是非ともご購読賜わりますよう、よろしくお願い申し上げます。 なお、いずれの著書についても、初版以後に誤字・脱字などが見つかった段階で、随時訂正し、改版しておりますので、悪しからずご了承賜わりますよう、よろしくお願い申し上げます。また、「徳川将軍の小金原御鹿狩」第3版については、その後に出版致しました他の著書と同じページ設定に統一したため、ページ数が大幅に減少しておりますが、内容は初版・2版と変わりはありません。 |
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![]() 小名木川両岸に稲が稔ります(大矢敏夫撮影) |
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拙著4作品(5冊)の中には、歴史のなかに埋もれてしまったさまざまな事実と感動的なシーンがありました。あまりに多くの感動的なシーンのすべてについて、このホームページではとり上げ切れませんが、その中から、以下のとおり「ハイライト&エピソード」としてまとめました。ご購読の前にお読みください。表題や右に掲げた「その他のキーワード」をクリックすると、該当ページにリンクします。 ・徳川幕府とフランス政府による大プロジェクト その1 ・徳川幕府とフランス政府による大プロジェクト その2 《パリの徳川昭武》 なお、「ハイライト&エピソード」では、十分に説明が尽きているとは言えません。正確な、あるいは詳細な内容については、それぞれの著書をお読みいただければ、ご納得いただけるものと思いますので、是非ご購読いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。 | 【その他のキーワード】 |
※「著書のハイライト&エピソード」の内容と資料の引用について ※当サイトに掲載されているすべての画像、文章の無断使用・転載を禁じます。 |
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私は四街道市長岡地区の井岡家に残る嘉永2年の小金原御鹿狩に関する22点の古文書を詳細に調査いたしました。それらの古文書の内容は、主として幕府の触書の書写や百姓勢子人足が勤めるべき規則その他さまざまな記録などです。しかし、文書に記載されている御鹿狩に関する用語のみならず、そこに記載されている内容や、そのような文書が作成された意図や背景については分からないことが多く、井岡家文書のみでは小金原御鹿狩を理解することができませんでした。そこで、私は千葉県内はもちろんのこと、御鹿狩に関わった常陸国(茨城県)・武蔵国(東京都・埼玉県)の資料、国立公文書館所蔵の「大狩盛典」に代表される幕府が残した資料や元旗本家の古文書などを調査し、比較検証し、総合化した上で、少なくとも嘉永2年3月の小金原御鹿狩の全貌を解き明かしたつもりです。 さらに、四街道市域における勢子人足の役割や彼らが行った追い立て方の実態を解き明かすとともに、勢子人足が残した記録などを頼りに、彼らの心情を理解するに至りました。以下では、彼らの追い立て方の概要を図で示したいと思います(「古文書が伝える江戸時代の四街道」より)。 |
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ジョルジュ・ルボンと「ルボン山」命名の瞬間 |
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「ルボン山」命名の瞬間 ![]() ChatGPTが描いた「ルボン山」命名の瞬間 明治45(1912)年9月13日の明治天皇の大喪の儀式に、フランス国代表として来日したジョルジュ・ルボン将軍は、帰国を前に9月23日に四街道を訪れ、自ら築いた「小山」の頂上に立ち、若き日を回顧して感慨にふけっていました。すると、側にいた陸軍野戦砲兵射撃学校長の河北大佐は、頂上に「ルボン山」と記された木標を建てさせましたが、感激したルボンは河北大佐の手を取り、固く握手をしました。これが「ルボン山」命名の瞬間でした。現在「大土手山」と呼称されていますが、本当の名は「ルボン山」です。おそらく、先の大戦で敵国となったフランス人の名を冠した名称を改めたのではないかと推測されます。地元の古老は「ルボン山」と呼んでいたことを伝えています。なお、ルボンは現在の「ルボン山」の東側に長大な大土手を築いており、その東端は現在の文化センターの駐車場にまで伸びていました。終戦後に、その土手は破壊され、「ルボン山」だけが残されたのです。よくぞ、残してくれたと、心から感謝しています。 |
| 《ルボン山の位置》 |
大土手は現在の文化センターの駐車場まで伸びていました。
![]() 江戸時代の六方野(太線部分)。六方野は広大な原野であり、東・西・南・北・天・地の「六方」に広がる原野でした(国土地理院の地図に周辺村々などを加筆)。 六方野の開発は江戸時代初期の寛文12(1672)年の長沼新田の起立が最初です。その後、川野辺新田や小深新田等が開発され、江戸時代の後期では中央の南北に細長い地域が原野のまま残され、周辺の村の秣場(まぐさば)となっていました。 |
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「四街道」という地名の起源は、現在の四街道市の中心部にある「四つ角」であることは多くの市民が知っています。この「四つ角」は天保11年2月に作成された町打場(砲術稽古場)の地図にもあらわされていますが、江戸時代には周辺の村々から遠く離れた村はずれの原野の縁(へり)にありました。 その昔、九十九里沿岸の下総国海上(うなかみ)郡や匝瑳(そうさ)郡、上総国の武射郡や山辺郡の旅人たちが江戸に向かう時、あるいは、海産物などを江戸に運ぶ時に、彼らがたどる道はいくつかありました。八街、岩富を経て「四つ角」を通過する道もそのひとつでした。旅人や荷主の出発場所によって異なりますが、その日もしくは2日目の宿泊地は馬渡村(現在の佐倉市)となります。少し頑張って、旅籠のある山梨村(現在の四街道市)を宿泊地とした者もいましたが、そのあと鹿渡村(前同)を通過し、「四つ角」を経て狐狸の棲む六方野の原野を抜け、次の宿泊地の船橋や行徳を目指しました。![]() 天保12年2月の「四つ角」(千葉県立中央図書館蔵「佐倉藩砲術練習場絵図面」) すでにこのころには「四つ角」が千葉や佐倉、江戸や九十九里をつないでいたことが分かる |
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明治22年4月1日、市制町村制が施行されたことによって、全国的に町村の大合併が実施されました。これにより、下志津原や六方野周辺に江戸時代から存在していた多くの村が廃止され、合併して、千代田村、旭村、志津村、犢橋村が生まれました。 千代田村は、内黒田、物井、亀崎、栗山、長岡、下志津新田、畔田、生谷、羽鳥、飯重、吉見が合併して生まれた村で、畔田村字四ッ街道も陸軍野戦砲兵射撃学校も、この千代田村の村域に入りました。 また、鹿渡、和良比、小名木、山梨、成山、中台、馬渡、上野、南波佐間、和田、中野、吉岡が合併して、旭村が誕生しました。 昭和15年12月、千代田村は町制を採用して千代田町となりました。 そして、昭和30(1955)年3月10日、千代田町のうちの内黒田、物井、亀崎、栗山、長岡、下志津新田と、旭村のうちの鹿渡、和良比、山梨、和田、中野、成山、中台、上野、南波佐間、小名木、吉岡が合併して四街道町が誕生しました。そして、千代田町の畔田、生谷、羽鳥、飯重、吉見が、さらに旭村の馬渡が、佐倉町に吸収されました。四街道という名は、郵便局名から始まったが、行政区にその名が刻まれるのに74年を要したわけです。 昭和56年4月1日、四街道町は市制施行により四街道市となりました。 ![]() 昭和3年1月に松井天山が描いた「千葉県四街道駅鳥瞰図」の一部、四街道駅北口附近に旅館など音焦点が並んでいる。 |
フランス陸軍砲兵大尉ジョルジュ・ルボンが下志津原に大砲演習場を開設し、その時、後に四街道の貴重な史跡となった「ルボン山」を築造したことについて、私は、なぜフランス人がはるばる辺境のこの地を訪れることになったのか、なぜアメリカ人やイギリス人ではなく、フランス人だったのか、西洋との外交はどのようにして始まったのか、などなど多くの疑問を解き明かしたい、と思うようになりました。 そして、徳川幕府が開国をフランスのナポレオン政府に頼り、幕府を倒した明治新政府もまた陸軍の創設をフランス政府に頼ることになったことに気づき、強い感動を覚えました。というのも、幕末・維新の歴史に興味を持っておられる方はご承知のとおり、徳川幕府が薩長などの攘夷派や外国人を嫌悪する人々と戦うことになりますが、その裏では、開国に向けた幕臣たちの涙なくしては語れない苦労の歴史があったことを知るに至ったからです。 同時に、幕末から明治にかけて、極めて好意的に接し、西洋事情を教えた外国人がいたことを知りました。そのようなあまり知られていない幕末・維新について、一次資料の古文書や旅行日記、古典籍、研究者による論文などの調査をもとに執筆し、書籍を出版するに至りました。浅学菲才の私ではありますが、幕末・維新の歴史を異なる視点で見なければならないのではないかと感じたため、表題を「幕末・維新アナザーヒストリー」とする、上下2巻の‶大作(?)”になった次第です。 |
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ハリスは幕府に対して、日米修好通商条約の批准書交換をワシントンにおいて行うことを提言し、幕府もこれを受け入れました。ハリスの狙いは、できるだけ多くの日本人にアメリカの姿を見せて、近代的な西洋国家を体験させることでした。 幕府は、正使として外国奉行兼神奈川奉行新見(しんみ)豊前守正興(まさおき)を、副使として勘定奉行兼箱館奉行兼外国奉行兼神奈川奉行村垣淡路守範正(のりまさ)を、目付として小栗豊後守忠順(ただまさ)を、勘定組頭として森田岡太郎清行、外国奉行支配組頭成瀬善四郎正典を、それぞれ任命しました。一行は総勢77人の大使節団となりました。 そしてハリスは、使節を乗せる艦船として、ペリー艦隊の旗艦であったポーハタン号を用意しました。 この時、幕府はポーハタン号の護衛として咸臨丸を別艦に加え、艦長に木村摂津守喜毅(よしたけ)を、指揮官に勝海舟を任命しました。そして、乗組員としてオランダで造船などの学問を学び、専門的知識を得て実践してきた長崎海軍伝習所の卒業生を中心に選任しました。咸臨丸乗船者は総勢90余人(資料により若干異なる)でした。なお、福沢諭吉は伝手を頼り、木村の従者として随行しました。 艦長の木村には緊急時におけるポーハタン号の護衛という使命がありましたが、いまひとつ、わが国がこれまで経験していない日本人による外国への航海の端緒とする、という責任もありました。ところが、結果的にはいずれも果たせませんでした。 |
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目的:日米修好通商条約批准書交換 |
![]() ![]() 遣米使節が乗船したポーハタン号 (田中一貞編「万延元年遣米使節図録」掲載絵図、国立国会図書館デジタルコレクション) | 【遣米使節のアメリカ旅行】 ポーハタン号は、咸臨丸がすでにサンフランシスコで大歓迎を受け、ドックで修理を受けている間に、彼らと一時合流しました。サンフランシスコは遣米使節の公式訪問地ではないものの、アメリカ政府との批准書交換式を控えた公式使節であることから、サンフランシスコ市長の公式歓迎会を受け、金貨製造所などを視察するなど、咸臨丸の乗組員とは少々扱いが異なっていました。しかし、あくまでも一時的な寄港であったため、僅か10日間滞在した後、パナマに向けて出港しました。 この当時、サンフランシスコはゴールドラッシュの時期ではありましたが、ワシントン間の鉄道はまだ開通していなかったため、駅馬車でロッキー山脈を越え、大平原を横断しなければ、ワシントンには行けなかったのです。従って、パナマに上陸し、蒸気機関車に乗り、最短距離でメキシコ湾側に渡り、海路をたどるしかありませんでした。蒸気機関車に乗った使節一行の感動ぶりは、副使村書きの日記を含めて、遣米使節に同行した人々の日記から実に面白く読むことができます。 一行はその後、ワシントンで条約批准書交換を果たしただけではなく、各地で大歓迎を受けながら、ボルチモア、フィラフィルディアを経由して、ニューヨークに向かいます。 詳細は「西洋との遭遇 幕末・維新アナザーヒストリー上巻」で解説しています。 |
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目的:二都二港開市開港期限延期談判 |
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目的:横浜鎖港談判 |
二都二港開市・開港期限延期談判使節(第一次遣欧使節)がヨーロッパ滞在中に、国内では凄惨な外国人殺傷事件が続いていました。 文久2年5月29日(6月26日)には、前年に続いて、イギリス公使館の東禅寺が襲撃され、第二次東禅寺事件が発生し、イギリス人水夫2人が殺害されました。公使館警備中の松本藩士が、オールコック公使渡欧中の代理公使ジョン・ニールを狙った事件でした。ニール代理公使は幕府に対して、警備に当たった大名(松本藩松平光則)の処罰と公使館警備の強化、および二人の水兵の遺族への賠償金1万ポンドの支払いを要求しました。 同年8月21日(9月14日)には生麦事件が発生しました。薩摩藩の国主島津久光が将軍に幕政改革を提言し、江戸からの帰途、400人の供を従えて生麦村に差し掛かったところに、イギリス人男性3人と女性1人が迷い込み、乗馬のまま行列の横を通過しようとしました。久光を護衛していた薩摩藩士がただちにこれを討ち止め、リチャードソンという商人が即死、マーシャルとクラークの二名も重傷を負い、アメリカ領事館に逃げ込み、ボロデール夫人は居留地に逃げ帰りました。この事件について、ニール代理公使は、幕府に対して生麦事件への謝罪と10万ポンドの賠償金を要求し、薩摩藩には2万5千ポンドの賠償金と下手人の処刑を要求しました。 さらに、二都二港開市開港期限延期談判使節が帰国した直後の12月12日(1863年1月31日)には、上海帰りの長州藩士高杉晋作を隊長とする久坂玄瑞、伊藤俊輔(後の総理大臣、伊藤博文)、志道聞多(しじもんた)(後の外務卿、井上馨)ら、吉田松陰の教えを受けた浪人約30人が、落成間近の御殿山に新築中のイギリス公使館に放火し焼払う、という事件が発生しました。 イギリス公使襲撃事件や生麦事件さらには公使館焼き討ち事件などが発生し、ニール代理公使は、幕府と島津藩を相手に賠償金支払いを要求し、犯人逮捕を糾弾しましたが、これに対する幕府の対応が曖昧なまま推移していました。 一方、これを不服とするイギリスに対して、フランスのベルクール公使は、反幕勢力を阻止するために、幕府と共に戦艦出動などの武力行使を申し出ました。このような緊張が高まる中、さらなる外国人襲撃の風説が横浜居留地を恐怖に陥れていました。 文久3年2月13日(1863年3月31日)、将軍家茂は3000人の幕兵を率いて上洛しました。将軍家茂の上洛は第三代将軍徳川家光以来230年振りの上洛でした。公武一和以後、徳川幕府の中枢は京都にあり、天皇の意向は幕政に影響し始めるのでした。 朝廷はあくまで攘夷にこだわり、5月10日(6月25日)を攘夷期限と定め、将軍も止む無くこれに応じました。幕府は直ちに攘夷勅命の趣意を各国公使に通告するとともに、横浜鎖港の実施と外国人の横浜退去を言い渡しました。 このような事態に至り、各国は、開戦に備えるために、また在留の自国民を保護・収容するために、横浜に艦隊を集結させました。4月はじめの時点で、イギリス11、フランス3、オランダ2、アメリカ1、合計17鑑が横浜港を埋め尽くしました。とくに、イギリス海軍は江戸への侵入も辞さない姿勢を示したため、横浜のみならず、江戸の町々までもパニック状態に陥りました。そのため、横浜では外国人居留地の日本人は退去し、江戸では、老幼女子の近郊退避を命じ、多くの人々が郊外に逃れました。 百姓町人だけではありませんでした。幕府は前年の幕政改革によって参勤交代を緩和すると同時に、大名家の家族や一部家臣を国許に帰すよう命じていたため、文久2年から3年にかけて江戸詰の武家の国許への異動が急速に進みました。佐倉藩堀田家では江戸詰の大勢の家臣が佐倉の国許に移住したため、住居が確保できず、それぞれ親戚・友人などの家に同居せざるを得ませんでした。佐倉藩では急遽近郊の土地を確保し、これを家臣に与え開墾させました。 幕府は、強硬姿勢のイギリスに攘夷実行期限前に説得を試みようとしますが、ニール代理公使は賠償金支払いと横浜鎖港中止を主張して、交渉に応じませんでした。 この当時の徳川幕府は将軍をはじめとして、幕閣は京都にありました。 「攘夷期限」の文久3年5月10日(1863年6月25日)、江戸の留守を預かる小笠原図書頭(ずしょのかみ)長行は厳しい外交交渉を続けていましたが、それも行き詰まり、止むなく京都の幕府の許可なく、イギリス代理公使ニールに賠償金を支払います。生麦事件の賠償金10万ポンドと、第二次東禅寺事件の賠償金1万ポンド、合わせて11万ポンドをイギリスに支払ったのです。 ところが、同じ5月10日、攘夷の最先鋒である長州藩が攘夷断行と称して、下関碇泊中のアメリカ商船ペンブローグ号を、海岸の砲台と長州藩戦艦により砲撃しました。同月23日には海上を通航していたフランス戦艦キャンシャン号を陸上砲台から砲撃し、さらに5月26日には横浜に向かうオランダ戦艦メデゥーサ号に砲撃を加え、これにオランダ艦も応戦しました。長州藩による下関海峡封鎖による外国船砲撃事件です。各国艦隊は直ちに出撃して報復攻撃を実施し、軍監2艘を破壊、砲台を破壊し、民家を焼き払いました。 5月20日、小笠原図書頭は、賠償金支払いの弁明と、京都に足止めされている将軍家茂を迎えるために1600人の幕兵を率いて、軍艦に乗艦して大坂に向かいますが、幕府は攘夷を覆そうとした小笠原の行為をとがめ、老中職を罷免せざるを得ませんでした。 イギリスの代理公使ニールは、幕府との賠償金問題は解決したものの、薩摩藩は賠償金支払いも犯人逮捕にも応じないため、7艦の戦艦を引いて鹿児島に向かわせました。そして、7月2日(8月15日)に薩摩藩船二艘を拿捕し、先端が開かれました。いわゆる薩英戦争です。艦砲射撃による市街地の被害は大きかったものの、薩摩藩の反撃もすさまじく、イギリス艦隊側にも被害が及んだ。しかし、半月後にはイギリス艦隊は鹿児島湾を跡にせざるを得ませんでした。 ![]() 1863年12月5日付「Lemond Illustre」紙に掲載された薩英戦争の図(E.ローベンス作) 結局、11月1日(1863年12月11日)、薩摩藩は江戸においてイギリスと和睦を結び、生麦事件犯罪人の処刑を保証するとともに、事件の遺族と被害者に2万5千ポンド(10万ドル)を支払い、生麦事件は決着しました。 |
薩摩藩は薩英戦争の後、イギリス代理公使ニールとの講和会議において、留学生のイギリス派遣を要請し、ニールはこれを了承しました。そして、15人の留学生の派遣と合わせて、家老新納(にいろ)刑部を正使と、船奉行松木弘安(寺島宗則)、同五代才助(友厚)など4人の遣英使節を派遣しました。遣英使節の目的は、イギリスを訪問して貿易商社を設立し、武器・紡績機械その他の調達、薩摩藩の産物の輸出、さらに藩内において機械紡績工場の建設を進めるとともに、政府要人とも面談し、薩摩藩独自の外交的な活動を行おうとするものでした。幕府がロシュ公使と蜜月外交を進めているのに対して、薩摩藩はそれをしのぐ勢いで西洋との直接交流を進めようとしていたのでした。 慶応1年3月22日、使節一行と留学生は、イギリス商社ジャーディン・マセソンの長崎代理店トーマス・グラバーが調達した船で密かにイギリスに向かいます。もちろん海外渡航は禁止されているため、全員偽名を呼称しての密航でした。 薩英戦争以後、薩摩藩はイギリスに急接近し、フランスと蜜月外交を展開していく幕府との対立が浮き彫りになり、幕府と薩摩藩の国内を二分する問題と、フランスとイギリスの外交における思惑、が錯綜する複雑な政治環境が出現し始めることになります。 |
徳川幕府はイギリスに対して生麦事件の賠償金を支払いましたが、横浜・長崎・箱館の三港では相変わらず開港したまま貿易が継続されていました。しかし、孝明天皇の攘夷主義的考え方は不変であり、三港を閉鎖するよう幕府に圧力をかけ続けました。 文久3年8月4日、朝廷はすでに開港している三港の閉鎖を布告しました。8月14日、将軍後見職の一橋慶喜は、天皇の叡慮を安んずるため、鎖港の方針を決定し、すでに開港している三港のうち、横浜一港を鎖港することに決定し、幕府は各国代表に横浜鎖港を通告しました。 横浜港は全国の貿易額の7割を占めており、とくに生糸・茶・銅などを主とする輸出額は全国の8割を占めており、鎖港による通商への影響は甚大です。当然のことながら、各国はこの通告に激しく抗議し、フランスのベルクール公使は老中に書翰を送り、自分の役目は現行の条約を守ることであり、条約に違反する要請を自分は受け取るつもりはない、本国政府宛てに文書を提出するのであれば、私が本国に届ける、と冷たくあしらいました。 しかし、元治1年2月14日(1864年3月21日)、第14代徳川将軍家茂は二度目の上洛により、天皇に攘夷決行(横浜鎖港)の奏上を余儀なくされ、横浜鎖港談判のための使節を派遣することを決定しました。 各国が幕府に対して強硬姿勢を続ける中で、フランスのベルクール公使は、イギリスが生麦事件において行った薩英戦争のような挙に出ることは得策ではなく、外交によって事件を解決するべきであるという姿勢を幕府に示しました。但し、下関における長州藩による砲撃で被害を受け、戦死したアンリ・カミュ海軍少尉への謝罪と賠償については、本国政府に直接伝えるべきだと通告しました。 幕府はベルクールの比較的融和的な対応を評価し、鎖港談判をフランスに依存することにしました。そして、12月21日(1864年1月29日)、幕府はイギリス、フランス、アメリカ、オランダ、ポルトガル、プロイセン、ロシア、スイス、の8カ国の在日公使らに遣欧使節派遣を正式に通告し、鎖国の旧習は容易に変革できず、国内の「人心不折合」のため止むを得ない状況である、と弁解しました。 使節は12月29日に横浜を出港するが、その前日の28日に徳川将軍家茂は品川を出港し、海路大坂に向かい、上洛して翌元治1年2月14日に天皇に拝謁して横浜鎖港を上奏しました。 今回の横浜鎖港談判使節の派遣については、薩摩藩など国内はもちろんのこと、在日公使らからは憤りとともに完全に拒否されたもので、本国政府の承諾が得られる望みはなかったのです。それを承知で派遣されるのであり、国内の「人心折合」を図るための建前として、また天皇への表向きのパフォーマンスとして、各国と見せかけの交渉をするということになるのは明らかでした。 ![]() 1863年9月12日付london Illustrated News紙に掲載された横浜外国人居留地全景図 上の図は山手から居留地の西部地域に当たる新田辺りの眺望 下の図は山手から海岸に向けた眺望、多数の戦艦などが停泊しているのが分かる |
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外国船にとって、下関事件以後も下関海峡の通航が危険な状態にありました。長州藩による下関海峡封鎖事件です。横浜鎖港談判がその途次に上海で使節と遭遇し、危機感を覚えたイギリスのオールコック公使は、着任後第一に取り組んだのは、長州への報復攻撃でした。彼は、幕府がパリ約定を破棄すると宣言した上に、下関海峡の通航を妨げている長州藩に対して何の手立ても講じていないことを非難しました。そして、本国政府に要請して香港駐留の海軍を横浜に呼び寄せ、下関通航確保のために、アメリカ・フランス・オランダに呼び掛けて、四国連合艦隊の編成に着手しました。 その長州藩を激怒させたのが、元治1年6月5日(1865年7月27日)に京都の池田屋に集まっていた長州の攘夷派を、新撰組が捕縛・殺害した事件(池田屋事件)でした。これをきっかけに、長州藩内の強硬派が激高し、状況が一変しました。 池田筑後守らが帰国した翌々日の7月19日、その長州軍が、禁裏御所の蛤御門守衛の会津・桑名両藩に銃撃戦を仕掛け、天皇のお膝元の京都市中は戦火に覆われたのでした。しかし薩摩藩も加わってこれを撃破し、結局長州勢を撤退させました(禁門の変、蛤御門の変)。 幕府は8月2日に諸侯に対して長州征討を命じます。 一方、7月27日、イギリス艦9艘、フランス艦3艘、オランダ艦4艘、アメリカ艦1艘、合わせて軍艦17艘で編成された4か国連合艦隊が横浜を出港しました。兵員総数5014人の大遠征軍でした。そして、8月5日(1864年9月5日)、下関海峡に進出して砲撃を開始しました。四国艦隊下関砲撃事件です。 ![]() 下関前田砲台を占領したイギリス海軍(1864年12月24日「The Illustrated London News」紙掲載絵図、 フェリーチェ・ベアトが撮影した写真を銅版画に描いた) 長州藩は、この事件については攘夷実行期限が迫る中で、幕府が何も手を打てないために実行したものであると弁明しています。 当然のことながら、各国は直ちにこれに報復します。アメリカのプリュイン公使は、横浜碇泊中のワイオミング号を向かわせ、6月1日には主力艦壬戌丸(じんじゅつまる)など長州の軍艦2艘を撃沈しました。さらにフランスの艦隊も下関海峡に向かい、同月5日に陸戦隊が上陸して砲台を破壊し、また民家を焼払いました。 |
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![]() ナポレオン三世が徳川幕府に派遣したフランス陸軍軍事顧問団、前列左から、デュ・ブスケ、メスロー、シャノワーヌ首長、ブリュネ、デシャルム(エミール・グセル撮影、フランス国立図書館ウエブサイト「Souvenir de Cochinchine」掲載写真) 【第一次フランス陸軍軍事顧問団の来日】 慶応2年12月8日(1867年1月13日)、首長シャルル・シャノワーヌ大尉に率いられた15人からなるフランス陸軍軍事顧問団が横浜に到着しました。時の徳川将軍慶喜はちょうど3日前に将軍宣下を下されたばかりでしたが、この頃、慶喜は京都にあり、直接歓迎することはできませんでした。しかし、翌慶応3年3月に行われた各国公使の謁見時に、ロシュ公使以下の駐日外交官と共に、シャルル・シャノワーヌ首長、ジュール・ブリュネ砲兵中尉、レオン・デシャルム騎兵中尉が参列し、将軍慶喜に謁見しています。 また、小栗上野介の要請に応えて、彼が建設した関口大砲製造所において、ブリュネ砲兵中尉は同所で小銃や大砲の製造に取り掛かかりました。 |
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【ブリュネの処罰と叙勲】 明治5年1月に榎本武揚や大鳥圭介らが赦免されると、徳川幕府が招聘したフランス陸軍軍事顧問団に対する評価はもちろんのこと、ブリュネの評価は見直され、日本政府はウートレー公使の後任であるベルトミー公使に、ブリュネの扱いについて謝罪するとともに、今後これを問題視しないことを通告しました。 同年3月、ブリュネの来日当初から箱館戦争に至るまで、かれに付き従っていた田島応親がフランス公使館付駐パリ駐在武官に就任しました。そして、田島は久しぶりにブリュネと再会を果たし、叙勲の場に立ち会いました。二人が抱き合う感動的な再会の場面が想像されます。 因みに、この間のフランス公使館と新政府との間で活躍した人物がいました。フランス陸軍軍事顧問団の解散後、公使館に通訳として出仕していた元顧問団教師のデュ・ブスケでした。彼はその後新政府に雇われ、太政官の下で主に法律家として立法・行政・司法の専門家として新政府を支えることになります。彼は日本語で文書を作成するときに、自分の名前を「治部助」と記しています。 なお、ブリュネについては、佐藤賢一著「ラ・ミッション 軍事顧問ブリュネ」で彼の活躍が描かれており、映画「ラストサムライ」のモデルとも言われています。 |
【徳川昭武の万国博覧会】 パリ万国博覧会は1867年4月1日に開会し、11月3日(慶応3年10月8日)に閉幕します。その間、徳川将軍の慶喜の弟の徳川昭武は、ナポレオン三世への使節としてフランスに派遣され、8回にわたって万国博覧会を視察しています。1日や2日では視察しきれない博覧会ではありましたが、昭武は西洋の近代産業の発展と世界各国の珍しい文物に興奮したようです。 日本からの展示品とりわけ美術品は大好評で、7月1日(5月29日)に開催された褒賞授与式で、日本の出品物のうちの養蚕、漆器、手細工物の部門が最高の賞であるグラン・プリを授賞し、ナポレオン三世からグラン・プリ賞の64個のメダルのうちの1個を授与されました。 これが後に巻き起こる「ジャポニズム」の先駆けとなったのでした。 ![]() 1876年パリ万国博覧会会場鳥瞰図 ※右はセーヌ川、シャン・ド・マルスに会場が設けられた。円形の展示場に各国の展示ブースが割り当てられました。円形展示場の外側には各国館やイベント場が設けられました。(シャルル・フィショ作、Gallica/フランス国立図書館デジタル図書館掲載絵図) |
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徳川昭武一行は、パリに到着した早々に驚くべき情報に接しました。 生麦事件でイギリスから激しく責められた薩摩藩が、薩英戦争後に一転してイギリスに接近し、家臣のイギリス留学を要請して許可を得ていたことはすでにご紹介しました。薩摩藩は正使新納刑部以下の遣英使節と留学生を密航させました。 幕府が展示品の収集をしている当時から、実は薩摩藩については問題が発生していました。 パリに到着した徳川昭武一行は直ちに、未だ完了していない万国博覧会の展示ブースを確認し、日本品の展示に追われる一方、パリに着任したばかりの向山全権公使と外国奉行組頭の田辺は「琉球王国」使節と名乗る薩摩藩の正使岩下佐次右衛門に面会し、展示品のリストの提出、日本国ブースでの展示、展示国名の変更、などを申し入れました。しかし岩下は「すべてをモンブランに任せているので彼と交渉してほしい」と逃げ口上を述べるだけでした。 田辺太一は止むなくモンブランとの折衝を重ねることになりましたが、モンブランは要求を受け入れず、「政府」の解釈をめぐって激しい議論の末、幕府の意向に沿わない屈辱的な内容の協定書を取り交わさざるを得なかったのでした。国名は次のような表記となりました。 Japon Gouverment de Taikoun 大君政府 この一件により、田辺は解任されて帰国させられ、向山は公使を罷免され、わざわざ日本から栗本安芸守(瀬兵衛、鯤、のち鋤雲)を後任として派遣することになります。 その後、モンブランは論文「ありのままの日本」を発表し、日本には大君だけではなく、その他にも天皇の下に同等の地位にある大名が大勢おり、言わば、それらの大名からなる連邦国家である、とする立場を明確に示しました。 薩摩藩のパリ万国博覧会使節は、日本国の統治について鋭く批判したため、徳川昭武も向山全権公使も窮地に陥りましたが、その後の昭武の外交活動により、また薩摩藩使節の貿易会社設立の失敗によって、事なきを得たのでした。
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![]() 1870年以前のパリ市内鳥瞰図(シャルル・フィショ作、GALLICA/フランス国立図書館デジタル図書館掲載絵図)。 左手前はシルク・デテ(劇場)、右はパレ・ド・ランストリ(第1回パリ万国博覧会会場、1867年の万国博覧会表彰式が行われた)、右手はセーヌ川、手前の橋はコンコルド橋、上流にノートルダム寺院、中央のコンコルド広場、その向こうがチュイルリー公園、その奥にナポレオン三世の居所チュイルリー宮殿。宮殿はパリ・コミューンにより焼失した。さらにその奥にルーブル宮殿(現代の美術館)がある。 この時期にはまだエッフェル塔は建っていません。1867年のパリ万国博覧会が開催されたのはライン川の右手です。 |
![]() 昭武が留学中に住んだ ペルゴレーズ街(Rue Pergolèse53番)の建物は今も存在する(グーグルマップのストリートビュー) 正面5階建て、各階四つの窓の部分の1階と2階が昭武の下宿、建物に面する左右の通りがペルゴレーズ街
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| 岩倉使節団とその使命 |
明治4年11月12日(1871年12月23日)、右大臣岩倉具視を特命全権大使とし、参議木戸孝允、大蔵卿大久保利通、工部大輔伊藤博文、外務少輔山口尚芳の4人を副使とする視察団が横浜港を出発しました。岩倉使節団の随行者の中には、第二次遣欧使節や徳川昭武のパリ派遣に随行した外務少丞田辺太一、通訳として第二次遣欧使節団随行者だった塩田篤信(三郎)も含まれており、遣米使節に随行しブームを巻き起こしたトミーこと立石斧次郎も、長野桂次郎の名で随行しました。 使命を帯びた使節団は総勢46人ですが、そのほかに大使・副使の随従者18人、留学生43人、合計107人の大使節団となりました。留学生の中に5人の少女がおり、そのうちの最年少だった8歳の津田梅がいたことはあまりにも有名です。 大使・副使はいずれも薩長出身者ですが、随行者には旧幕府の海外渡航あるいは外交の経験者が多数含まれており、その存在感が目立ちます。呉越同舟という形である上に、旧幕府の随行員の多くは外国通であるのに対して、大使・副使(伊藤を除き)など薩長出身の政府中枢メンバーは国際経験のない者がほとんどでした。両者の間にはしばしば不協和音が発生しましたが、外国通の旧幕府出身者は大使・副使にとっても頼りになる存在だったのです そもそも岩倉使節団の使命は3つありました。 通商修好条約の改正に当たっては、両国政府のいずれか一方から、1872年7月4日(明治5年5月29日)の1年前にその意向を伝えなければなりませんでしたが、その期限が間近に迫っていました。そのため、この期限延長を申し出ることが岩倉使節団の最大の目的でした。 ![]() 岩倉大使欧米派遣図(横浜湊) (宮内庁宮内公文書館所蔵、識別番号74208「明治天皇御記附図稿本巻一」第27番掲載図) |
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| 村の鎮守と檀那寺と信仰 |
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| 宗門改めと市域の人口 |
江戸時代には幕府は切支丹(キリスト教)や日蓮宗不受不施派を禁じました。人びとはこれら以外のいずれかの宗派に属していることを証明するために、菩提寺を定めて檀家となることを義務付けられました。これが「寺請(てらうけ)制」です。この制度に基づき、幕府や大名は寺に対して檀家の調査を定期的に実施させました。これが「宗門人別改め」であり、それをまとめて領主に提出するのが「宗門人別帳」あるいは「宗門人別改帳」です。家別の石高、家族の名前、家主との関係、年齢、男女の区別、総人数、馬の数、などを記録し、領主に報告させました。 それともうひとつ、領主が人別すなわち人口の調査を実施する狙いがありました。労働人口の把握です。領民に宿場の助郷や橋・道路普請などに人足を出すことを義務付けたので、15歳以上、60歳までの男が何人存在しているか、すなわち働き手となる男子が何人いるか、を把握する必要があったのです。従って江戸初期の宗門人別帳により、あるいは領主によっては、女性や子供は人数だけで、名前も年齢も記載されていない宗門人別帳もあります。これは女性蔑視でも何でもなく、労働の対象とならなかったためです。その後、江戸後期には宗門人別帳は人口統計的な側面をもつようになり、現在の戸籍簿の原型ともなっていきます。 佐倉藩でも定期的に宗門改めを実施し、その原本となる宗門人別改めの控えとして、鹿渡地区の小川三郎右衛門家と内黒田地区のものが残されています。鹿渡村の宗門人別帳は現在の鹿渡地区の善光寺と、山梨地区の松源寺によって、また内黒田村のものは西光寺によって作成されています。 これらの宗門人別帳から、当時の村の人口、個々の家の石高や家族数、家族の名前、家族構成、飼い馬の数などを知ることができます。 鹿渡村や内黒田村の宗門人別帳に記載されている人口数と石高により拡大推計して、幕末の四街道の人口は約4000人、現在の4%程度だったのではないかと私は推測しています。また、少子化時代の現在と比べれば、貧しくはあっても、子供が多く賑やかに明るく暮らしていた家族の様子がうかがえます。また、2世代同居家族や、家督を継いだ兄の家に「厄介」として同居する家族など、封建的な家父長制の家族関係をうかがうことができます。 ![]() (Copilot生成画像) |
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| 村請制に基づいて、土地を守り、領主に年貢を納める義務を負った江戸時代の村は、それぞれが孤立した状態にあったわけではなく、周辺の村々とのさまざまな形態の共同体として、その安定的な存続を維持していました。それが複数の村による「組合」です。以下では、そのいくつかの組合をご紹介します。 |
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| さまざまな組合~村ネットワーク |
| 改革組合村や助郷組合などのように、江戸時代の村は単独で領主の御用を勤めるだけではなく、近村と共同して、徳川幕府や佐倉藩の御用を勤めていました。このような共同体はほかにもありました。 |
【助郷組合】 佐倉城と江戸を結ぶ佐倉道(江戸道とも言う)は、佐倉藩主である堀田家はもちろんのこと、利根川筋や九十九里筋の大名家の参勤交代の通行道でもありました。その街道沿いには、臼井、大和田、船橋、八幡などの宿場があり、それぞれに「助郷組合」が編成され、大名家の御用に応じて、各宿場の問屋から近隣の村々に人足や馬が割り当てられました。通常は助郷村が定められていましたが、それだけでは間に合わない場合には、「定助郷」や、さらに広域の「大助郷」(加助郷)に指定された村にも割り当てられたのでした。 臼井宿の助郷は、佐倉道の北側の地域で編成されている印西村助郷組合19か村と、南側の地域の村々で編成されている馬渡村助郷組合14か村が支えていました。四街道市域の村は助郷村ではありませんが、定助郷や大助郷として、馬渡村助郷組合から人馬の差出を要請されていました。 【御鷹組合】 御鷹狩と言えば、徳川家康が慶応19年1月に御成街道を築造して、東金で実施した御鷹狩を想像します。確かに家康は御鷹狩を好み、江戸近辺でしばしば御鷹狩を行っています。家康が将軍在任中に江戸を離れて鷹狩をしたのは、この東金での御鷹狩くらいのもので、特別な御鷹狩でしたが、真の狙いは江戸開幕間もない不安定な政情において、安房の里見氏や常陸の佐竹氏を牽制するためだったとも言われています。それはともかくとして、東金方面での御鷹狩には家康亡き後、秀忠、家光も御成街道を通っています。これに伴い、東金地域には数百にのぼる村々が御鷹狩組合を編成し、将軍の御鷹狩を支えました。 その後、御鷹狩は5代将軍綱吉による「生類憐みの令」により中断しますが、享保1年8月に8代将軍吉宗が復活させました。吉宗は江戸十里四方を「御留場」として、数か所の御鷹場(御拳場)を設けましたが、それ以外の上総・下総の地域にも、御鷹匠が御鷹の訓練や御鷹の餌となる「上げ鳥」すなわち小鳥を確保するための「御捉飼場(おとらえかいば)」が散在していました。 |
【用水組合】 江戸時代において、百姓にとって米作りは生活の糧であり、稲作のための用水の確保は最大の課題でした。幕府や大名にとっても、年貢は財政を支える基盤であり、用水確保や治水は重要な政策課題でした。一方、用水の問題はときには近隣の村との争いの種ともなりました。 領村における安定的な米作りのためには、用水の確保は領主にとっても見過ごしにできません。そこで、領主の仲立ちにより、隣村同士で用水の管理を行いながら、農業の安定を図ろうとしました。近隣の村々で河川を共同管理し、土手を築き、堰を守り、用水を確保するための共同体が形成されました。 四街道市域に小名木川という小河川があります。佐倉藩は鹿渡村、長岡村、物井村、羽鳥村の4か村を共同させ、取水堰、水門、樋などを築造し、補修するなど、用水のの維持管理を藩の事業として行っていたことが小川三郎右衛門家文書によって明らかになっています。 ![]() 小名木川流域と用水堰普請の範囲 濃い青線が用水堰普請地域、但し、物井村以北の亀崎村・羽鳥村の水域は含んでいない。 (明治15年4月陸軍参謀本部陸地測量部作成フランス式彩色地図「山梨村・和良比村」に加筆) |
| 四街道の子供も種痘を受けた! |
江戸時代には、麻疹、コレラ、その他、治療法がなく死を待つだけの恐ろしい病気がいくつかありましたが、疱瘡もそのひとつでした。疱瘡(天然痘)はウイルスによって感染する伝染病で、医学界で痘瘡と呼ばれ、強い感染力と高い死亡率、また、命を取り留めても顔や体に跡が残ることから、古くから恐れられていました。 天保7(1836)年10月、佐倉藩主堀田正篤(のち正睦)は旧来の藩学問所である温故堂を移転拡充して、聖廟や寄宿坊などを備えた総合大学成徳書院を設立しました。さらに、天保14(1843)年、長崎でオランダ医学を学んだ蘭方医佐藤泰然を招聘し、藩内に順天堂を開設して、佐倉を西の医学先進地である長崎に匹敵する東の先進地としました。 しかし、当初は領民が種痘を嫌がり、なかなか普及しませんでした。小川三郎右衛門家文書の「御用日記帳」にはその様子が記録されています。 ![]() (ChatGPT生成画像) |
佐倉藩は領村に対してさまざまな御用を命じますが、それらの御用を記録した古文書があります。名主が「御用日記帳」「御用留」などと名付けて作成されたものです。 重要な触書や緊急の御用状などの場合には、「刻付廻状」と呼ばれる御用状もあり、受け取った村の名主は、送付先の村の名前、到着時刻、次の村への順達時刻とその宛先の村名、などを別紙の「刻付請印帳」に書き認め、触書や御用状と共に次の村に順達しなければなりません。 これまでご説明してきましたが、四街道市にも鹿渡地区の小川三郎右衛門家に幕末の御用日記帳が残されています。この御用日記帳には、佐倉藩からの御用状だけではなく、関東取締出役や寄場村や五郷組合からの御用状も記録されています。 ![]() (ChatGPT生成画像) |
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